英国よりも先。明治初期に「男女同権」を提唱した“憲法案”起草者の名前

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薩長土肥藩士のみならず、日本中に「国の明日」を思う面々が溢れていた幕末から明治時代初期。そんな時代の中にあって、極めて進歩的な「憲法私案」が存在していたことをご存知でしょうか。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』ではジャーナリストの高野孟さんが、米沢藩出身の秀才が政府に提出した「建言書」を紹介。その内容を「今見ても先鋭的」と高く評価しています。

※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2023年8月21日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

立憲君主・2院制・男女同権を提唱した米沢藩士の憲法案/「民権思想」を遡る・その4

前回(No.1218「公武合体構想こそ明治維新の本筋だったのでは」)で、上田藩士の赤松小三郎の「公武合体」による平和的な政権転換と早期の普通選挙による2院制議会開設の構想こそが明治維新の本筋であり、それをテロと内戦激発でブチ壊して軍事帝国の建設に突き進み、議会開設についてはロクな考えも持っていなかった長州・薩摩の野蛮はむしろ脇道だったのではないか、ということを論じた。

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赤松の建白書が、内容面の先進性においても、慶應3(1867)年5月という発出時機から見ても、まことに先駆的であったことは疑いないけれども、しかし、彼は決して突出し孤立した存在ではなく、維新のだいぶ前から江戸幕府の足元ばかりでなく全国各地の藩でも、そのような国体変革を巡る議論が盛んに行われるようになっていた。

洋学紳士ぶりの広がり

その中心は、嘉永6(1853)年のペリー来航を受けて洋学研究の切迫性を痛感した幕府が2年後に開設した「洋学所」(翌年に改称して「蕃書調所」)で、そこでは例えば、文久元(1861)年にドイツ語教官の加藤弘之が原案を執筆した、専制君主・立憲君主・貴族共和・民主共和の政体4類型を論じつつ立憲君主制を望ましいものとした「最新論」に、同僚の蘭語・英語教官の西周、津田真道が詳細に朱書批評した文書が回覧されたりしていた。

この加藤、西、津田らと、蕃書調所に一時は入ったが飽き足らずにすぐに辞め、自分で「蘭学塾」(後の英学塾、慶應義塾)を立ち上げた福沢諭吉とか、あるいは薩摩藩の洋学校「開成所」から欧州に密航・留学した森有礼とかは、中江兆民が描くところの「洋学紳士」ぶりで共通しており、実際、彼らは後に揃って「欧米事情通の啓蒙派」の大拠点「明六社」を結成するのである。

しかし、面白いのは、森が出た薩摩の「開成所」だけでなく維新前後には多くの藩が公認の藩校や個性的な私塾を持っており、それらが江戸から外国人もしくは外遊経験のある日本人の講師を招いたり、あるいは優秀な学生を江戸や長崎に遊学させたりするといった交流が、ごく当たり前に行われていたということである。

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