「一億総幼稚化」とも言うべき状況が進行し、「知的」という言葉がすっかり死語と化した感のある現代日本。しかし文筆家の倉下忠憲さんは、「日本人の知的なものへの関心はなくなっていない」と感じていると言います。今回、倉下さんはメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で、さまざまな仮説を立てつつ「日本人と知的なもの」との複雑な関係性を考察・解説しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:知的な営みへのアンビバレントな思い
知的な営みへのアンビバレントな思い
2024年の今現在、「知的生活」という言葉はどんな風に響くのでしょうか。
渡部昇一さんの『知的生活の方法』が出版されたのが1976年。1970年ごろに急激に衰退しつつあった昭和教養主義のなごりがまだ市井に漂っていた時代でしょう。知的なものへの憧れは弱まりつつありながらも維持されていたのです。
また、高度経済成長期がピークに達し、オイルショックや工業化による環境破壊の実態が明らかになったことで、「このままずっと良くなっていく」という展望が抱きにくくなっていた時代でもあります。
物質的にはたしかに豊かになった。しかし、このまま物質的豊かさを求めることには危うさがある。だとすれば、物質的ではない豊かさこそが必要ではないか。そのような機運が高まってもおかしくありません。
そう考えると、「知的生活」というフレーズはその時代の人々に求められる要素を備えていたのだと見えてきます。教養主義へのノスタルジーと、精神的充足感のある生活。今、そこにないものを求める姿勢。
その内実はどうであれ、今とは違う──そしてより好ましいであろう──生活のスタイルと価値観が提示されていたわけです。
では、現代はどうでしょうか。
■知的なものの弱まり
最近のニュースを見るたびに、日本において「知的なもの」の力が弱まっている印象を受けます。
大学や博物館の予算がない。司書が軽く扱われている。書店が閉店し続けている。フェイクニュース、コピペ記事、中身を確認しない安易な拡散行為……。数え上げればきりがありません。「知的なもの」は、この社会において衰退しつつあるように思います。
もちろん、『知的生活の方法』がヒットした時代でも、同様に「知的なもの」が力を失いつつあったのでしょう。むしろ、失われつつあったからこそ「こういうものが大切だよ」という主張が注目を集めたのです。すべての人が当たり前のようにやっていることをアピールしても「そりゃ、そうでしょ」で終わってしまいます。
今そこにないからこそ、提案することに意味がある。
その意味で、1976年頃も現代も「今はない」という点では共通しているのですが、前者の時代では、その直前までたしかに教養主義が生きていました。どういう形であれ「知的なもの」の力を信じ、そこに憧れを持つ人が社会の中に残っていたのです。
しかし、現代は違います。バブルの熱狂という「泡」が膜となり、教養時代の空気は現代までほとんど届いていません。むしろある種の歪みがあり、そうした価値観の提示は「老害」として処理されることが増えているかもしれません。どちらにせよ、「知的なもの」への憧れという系脈が大きなルートとしては現代まで引き継がれていないのです。
だから「知的生活」という言葉には、ノスタルジーも憧れもきっと生まれないのでしょう。
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