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■理由と気持ち

そうすると、二つ考えたいことが出てきます。一つは、何が要因となってその「為したいこと」が為せない状況になっているのか、ということ。もう一つは、なぜそうした「為したい」という気持ちが芽生えているのか、ということ。この二つは絡み合っています。

まず、気持ちの芽生えの方から取り組みましょう。

最初に確認したように、現代の「上の世代」はバブル世代であり、教養主義世代とは隔絶しています。「教養を持つことは良いことだ」という言説をまともに受け取る人はないでしょうし、場合によっては老害扱いされかねません、また、教養主義を体現している人が身近にいる可能性も低いと思われます。

人は、周りの人に影響を受け、文化とは再生産であり、欲望は模倣されることを考えると、現代を生きる人が「知的なもの」やその営為に憧れるのは少々謎めいています。

さらに、現代は物質的に豊かなだけでなく、情報的にも豊作です。死ぬまでの時間を埋め尽くせるほどのコンテンツがあり、しかもそこにお金はたいしてかかりません。無料のコンテンツだけで、人生を過ごすことすら可能でしょう。

だとすれば、ますます人が自分で何かを為したいと(あるいは知的な営みを試みたいと)願うことは不可思議です。

■二つの仮説

ここで二つ仮説を挙げましょう。一つは、知的な営みを試みたい気持ちの芽生えは、文化的な作用よりも生物的な作用に近いものだ、という説。この場合、時代や文化はどうであれ人は一定確率でそうした気持ちを持つことになります。

もう一つは、周りが知的な営みを試みていない「からこそ」、そうしたものを欲するのだ、という説です。

スティーヴン・クウォーツの『クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか』では、若い人は親の世代がやっていないことに価値を見出す傾向が紹介されています。現代で若者にレコードが受けているのもそうした要素が少なからず関係していそうです。

現代社会(資本主義社会)では、人は差異を求めるので、上の世代がやっていないことにこそ価値を見出すという話は十分ありえます。特に現代社会の有り様に忌避を覚えれば覚えるほど、その反動として(現代が軽んじている)「知的なもの」への憧れが芽生えてくる可能性は高まります。

とは言えです。

レコードを買う若者も、まわりに誰一人それを買っている人がいなければそれに手を出すことはないでしょう。なにしろ存在を知らなければ、買うことはできません。

ここにでインターネットの登場です。自分のリアルな(身の回りにいる)人間は知的なことをやっていないが、インターネットでつながる限られた人間が知的な営みをやっているとき、人はそこに憧れを感じる気持ちが生まれる。そういうシナリオが想像できます。

■一定数は必要

このどちらの仮説が正しいのか(あるいはどちらとも正しくないのか)を確かめるデータは持ち合わせていませんし、それを集める余力も私にはありませんが、前者であれば何もしなくても自然発生し、後者はインターネットが人と人をつなぐ限り発生していくだろうと考えられます。

ただし、後者は「その社会において知的な営みを続けている人が一定数いる限りにおいて」という前提がつきます。もしそれがなくなれば、いつかは「知的な営み」に憧れを持つ人はいなくなってしまうでしょう。その結末を避けるには、そういう人が一定数いる状況を維持し続けることが必要です。

そのために何ができるのかは別途考えるとして、もう一つの疑問に進みましょう。困難さについてです。

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