■困難さ
なぜ知的なものに憧れを持ったり、知的な営みを欲したりしても、それを実現するのが難しいのでしょうか。
ここでは、先ほど気持ちの芽生えで挙げた理由がそのまま逆流してきます。
まず周りにやっている人がいないと、それを「生活」のレベルで継続するのは非常に難しいものです。単純にイメージしてみましょう。両親ともに読書家で、本を読んでいたら褒められる家庭で育つのと、本なんてお金の無駄だと思っている家庭で育つとでは、どちらに読書に意欲的になり、また実際に本を読む生活が送りやすいか。
若者は周りとの差異を求めるわけですが、逆に言えば、そのくらい周りから影響を受けているわけです。デイモン・セントラの『CHANGE 変化を起こす7つの戦略』では、人が新しい行動を採用するときにいかに身近な人の影響を受けるのかが示されています。そのことを考えれば、周りの人がやっていない行動は差異として憧れは感じるものの、実践し続けることは困難になります。
次にインターネットです。インターネットはたくさんの情報と、リアルでは知り合うことができない人たちとのつながりを作ってくれますが、大きな力を持つものは反作用も大きいものです。
まず、たくさんの情報があることで、「自分で考えなくても済む」「情報を受けとるだけで一日が終わってしまう」という状況が容易に起こります。むしろそういうライフスタイルを促進するテクノロジーがあふれ返っているといっても過言ではありません。その流れに逆らうには、一定の力が必要でしょう。
また、良き人たちの多くとつながれるということは、そんなに良くない人たちとも多くつながってしまうことも意味します。知的な営みの当初は繊細な状態になるので、その段階で否定的な言説に晒されたらイヤになってしまうでしょう。リアルな人たちならば、単に無関心で済ませるものを(それも厄介ではあるのですが)、インターネットでは積極的な悪意に晒されることになるのです。これは初心者向きの環境とは言えません。
同様に、フラットな関係性でつながることにより、必要のない比較が生まれてしまう点もやっかいです。「こんな自分の考えなんてたいしたことがない」と思いやすいのです。ここに悪意の発露に晒されることが相まって、なかなか新しい一歩が踏み出せなくなります。
つまり、片方では私たちの知的な営みへの促しがある一方で、もう片方ではその営みを抑制する環境があるわけです。
■もどかしさを解きほぐす
話題を広げていくときりがなさそうなので、いったんここでまとめておきましょう。
私たちは何かしらの要因によって、知的なものへの憧れを持つ。おそらく、何かを学びたいという気持ちは生物的な要素が強く、何かを考えたい、表したいという気持ちは文化的な要素が強い。そうした文化が断絶していてなお(ないしは断絶しているからこそ)人が求める気持ちが生まれる。
その局面において、インターネットは非常に強力な武器である。ただしその武器は諸刃であって、エンハンスすることもあれば、阻害することもある。阻害が働いているとき、私たちは何かを諦めざるを得ない気持ちになる。そのとき、ときに憧れを抱いている対象を貶めたくなる気持ちも生まれる。
かなり付け足した部分もありますが、だいたいはこういう見立てです。でもって、現代ではそのような「諦めざるを得ない」と感じている人が多いのかもしれません。
ここで、「もっと自由にすればいいんですよ」と言ってしまうのは楽ではありますが、その分乱暴になってしまうでしょう。そうできたら苦労しないからこそ「諦め」の気持ちがあるわけですから。
加えて、知的な権威者が自分のプレゼンスを高めるためにやたら偉そうにすることや、ノウハウの売り手がそのバリューを高めるためにやたら過剰に意義を語ることなども検討したいのですが、今回は割愛しておきます。
とりあえず、私が注目したいのは「為したいと思っているのに、為せない」というもどかしさです。その状況をうまく解きほぐすことが、「知的生産の技術」を検討する人間にとっては大きな課題になりそうな気がしています。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2024年5月6日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をご登録の上、5月分のバックナンバーをお求め下さい)
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