前回の記事で、ケンタッキー・フライド・チキンの創業者カーネル・サンダースの半生について紹介した、時代小説の名手として知られ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』の著者である作家の早見俊さん。なぜ、彼は次々と襲いかかる困難に対して諦めるということをしなかったのでしょうか?今回も、彼の人生を詳しく紹介します。
KFC創業者カーネル・サンダース波乱万丈の人生
カーネル・サンダースは客が求めているものは何かを貪欲に追及します。目をつけたのはフライドチキンでした。何度も試行錯誤を繰り返し、絶妙のスパイスとハーブの調合に辿り着き、最新式の圧力鍋で今日私たちが味わうケンタッキーフライドチキンを完成させます。「やったあ! 」と、喜んだのも束の間、何と火事で店は全焼、またも全てを失いました。
筆者なら茫然自失となった後に己が不運を嘆き、神仏をなじることでしょう。で、時が経てば、命が助かったのをせめてもの幸いだと自分を慰め、食っていかなければと、職を求めて求人広告を探します。
対して不屈の男サンダースは挫けません。サンダースのフライドチキンが食べさせたいという要望に励まされ、再建に動きます。幸い、ノースカロライナ州に所有していたモーテルがあり、それを売り、銀行から金を借りて、今度はレストランだけに絞り、営業を再開しました。
カーネル・サンダース五十一歳、再々起のスタートです。と、スタートしたのはいいのですが、サンダースの人生は波乱が付き物です。不屈の闘志を失わない彼でしたが、思いもかけない大切な人を失ってしまいます。五十七歳の時、長年連れ添ってきた妻が離婚を切り出したのです。サンダースは戸惑いながらも子供たちが成長したこともあって、離婚に応じます。妻にはきちんと慰謝料を払い暮らしに困らないよう配慮しました。
店を失っても挫けなかった彼でしたが、妻に去られた寂しさには耐えられなかったのか、二年後にレストランの従業員と再婚しました。彼女は従業員だっただけに、彼の仕事に理解が深く、夫婦追随でレストランの経営を行います。五十九歳で新妻を得たサンダースはレストラン経営に邁進します。
すると、最早お定まりとなった困難が訪れます。レストランのある国道に迂回路が設けられことになりました。このため、店の前を通る車は激減します。客は減り、店の経営は悪化の一途を辿りました。
営業すればする程、赤字が膨らむとあっては店を畳むしかありません。この時、サンダースは六十五歳、残りの人生は年金生活でもいいかと弱気にもなりました。彼は店を売却、ところが目論んでいた売却費の半分にも満たない金額でした。税金、借金を返済したらほとんど残りませんでした。おまけに支給される年金はとても生活できるような金額ではありませんでした。