設置された百条委員会。「池田の名誉市民を取り消せ」の声も
池田の懐刀の山崎は「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と頼む。
そのうち、富士宮市議会に調査のための「百条委員会」ができて、山崎を証人喚問に呼べとか、池田の名誉市民を取り消せといった話になってきた。
私はこの経緯を『自民党と創価学会』(集英社新書)で詳述したが、最も参考になったのは後藤忠政の告白録『憚りながら』(宝島社文庫)だった。
学会もしくは池田のボディーガードと言われながら、その後対立して池田を糾弾する側にまわった後藤の証言である。
この本を構成したジャーナリストの西岡研介が、その後について、こう書いている。
「富士宮市議会での百条委員会は1981年3月、いったん設置されたものの、公明党などの反対派の強烈な切り崩しによって同年12月、何ら機能しないまま終結した」
機能しないように後藤組がどう動いたかが『憚りながら』には赤裸々に書かれている。
私はこれを拙著『時代を撃つノンフィクション100』(岩波新書)に入れた。
大騒動になった「密会ビデオ事件」
1996年、新進党に統合された旧公明党の国会対策委員長として活躍した権藤恒夫は自民党の実力者の野中広務と会った際、「公明」代表の藤井富雄が後藤忠政と会っているビデオが自民党に届けられた、と打ち明けられる。
そのビデオで藤井は、後藤に亀井静香ら4人の名前を挙げ「この人たちはためにならない」と、受け取りようでは後藤に4人への襲撃を依頼したとして大騒ぎになった。
世にいう「密会ビデオ」事件である。
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