■スーパーエゴ
精神分析の言葉に「スーパーエゴ(超自我)」があります。エゴ、イド、スーパーエゴの関係は聞いたことがあるかもしれません。
スーパーエゴはエゴやイドの見張り役的存在で、道徳的判断・理性的(理想的)判断を支える存在です。~~してはいけない、~~すべき、といった思いを担っているものです。
このスーパーエゴは、幼少期に受けたしつけが自分の心の中に取り込まれて作られる、と精神分析では考えられています。指導的立場が自分を見つめるまなざしを、自分が自分を見つめるまなざしへと変化(内面化)させたもの。そういう言い方もできるでしょう。
では、先ほどの厳しい関係が内面化されたらどうなるでしょうか。
自分の中にある複数の思いの中で、スーパーエゴが絶対的な存在になります。哲学的に言えば超越的な存在。その存在に疑いを差し込むことはありえず、正しさは常にそのスーパーエゴが持つことになります。
たとえば、何かしら理想を描いたとして、その理想が「正しい」ものとなるのです。自分が思い描いた「こうなったらいいな」というイメージが、そのまま「現実とはこうあるべし」という規範になってしまう。
その上、それって本当なのかという疑いを差し込むことは禁じられています。「正しさ」は金庫の中に入っていて、検証することも改造することも許されていません。
それがどれほど息苦しいものであるのかは、想像に難くないでしょう。
それが指導的立場の存在であれば、逃避行すればいいだけです。しかしスーパーエゴからは逃げられません。それは「自分」と共に常に存在しています。
■自らの思い
仕事術に代表されるノウハウは、「このようにしたい」という思いがニーズの根底にあります。現実的な状況と、理想的な状況のギャップがあり、それを埋めるために工夫や方略が探られるわけです。
ただし、その「理想的な状況」が、規範的に強く固まっているとどうなるでしょうか。「このようにしたい」ではなく、「このようになっているべき」だったとしたら。
そして、「本当に、このようになっているべきなんだろうか」という問いを持つことが禁じられているとしたら。
もし欲している状況が些細なものであれば構いません。少々の努力でその状態へと至れるでしょう。しかし、そもそも無理であればどうでしょうか。どうがんばってもたどり着けない。あるいはたどり着くために支払うべき代償があまりにも大きい(たとえば命)というときには?
その際は、理想の方を調整するのが健全でしょう。
しかし、それが封じられているのです。
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