「明文化」することで思考停止に陥ってしまうという事例、実は少なくないないようです。自己改革小説の第一人者である喜多川泰さんは、自身のメルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』の中で、「明文化による思考停止の弊害」というものについて教員を例にあげて解説しています。
明文化されることで起こる思考停止もある
公立の先生であれば、数年に一度異動があり、指導方針がまったく違う学校に行くことになることもあるかと思います。
校則が厳しくて、生活や授業の態度についての指導がしっかりしている学校もあれば、校則がなく、とにかく自由。子どもの自主性に任せる。授業態度も特に指導はないという学校もある。
急に環境が変わると先生は戸惑い、「前の学校では、こういうの結構うるさく指導してたのに、このままほっといていいのかな」とか「前の学校では、なんでも自由だったのに、こんなことまで指導しなきゃいけないのかな」と、その変化に馴染めないままの先生もいるかもしれない。
僕は校則があろうがなかろうが、先生がやることは同じだと思っている。
「うちの学校はあいさつは元気よく礼儀正しくを徹底しています」と明文化している学校があるとする。学校長も先生たちにその指導をお願いしますと徹底する。
そうなると、そこで教える先生たちは、生徒たちが卒業するまでに、どこに行っても気持ちのいいあいさつができる人になってもらおうと必死で指導するだろう。
でも、そう明文化されていなくても、それって先生が必死でやってあげなきゃいけないことじゃないの?
明文化することによって起こる思考停止がある。
「学校近隣の住民のみなさんの迷惑になるような行為は慎む」という校則があるとする。
校則化することで、迷惑となるような行為は無くなるだろうか。
おそらくなくならない。
指導する側も「校則に書いてあるから」とあえて毎日は指導しないかもしれない。
でも、そういう校則はないが、先生が毎日のように、「君たちは夢を実現したいなら、出会うすべての人に応援してもらえる人になった方がいい」という話だったり、「どんな人が応援してもらえるか」「どんな人だったら君は応援したくなるか」というような話をしていたら、子どもたちは日々「こんなとき自分はどう振る舞えばよいか」を考えるようになる。
「周りの人に応援してもらえる人とは」を考えることで結果として学校の周辺に住む人から応援されるような振る舞いをするようになり、「迷惑してます」という声がなくなっていく。
そういうことは実際に起こりうる。あることを禁止することではそれがなくならなかったのに、別のことを推奨することで、それがなくなったということだ。
校則に書いてあるから先生の思考停止を生むということがある。「迷惑かけるなよ」という指導しかしなくなり、言い続ければくどくなるので、徐々に先生も言わなくなる。生徒の側も「何が迷惑か」を考えないまま過ごすかもしれない。自分が迷惑をかけているとは思っていないが、近隣の人が嫌がる行為というのは結構ある。
書いてあるから達成できるわけではないということだ。
これは会社の理念やクレドといったものも同じだーーー(『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』2025年3月7日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
この記事の著者・喜多川泰さんのメルマガ
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