わからないものを、わからないままにしておく勇気
予測という行為は、一見すると理性的で科学的な行動のように思える。専門家のコメント、経済モデル、AIによるシミュレーションは、複雑なデータ処理と論理的思考によって導かれているように見える。
だが、実態はそうではない。
たとえば、あるエコノミストが「来年の成長率は3.2%に達する」と断言したとする。この数値は、過去の統計と仮定の積み重ねによって導かれた仮設である。
だがその中には、現在の政権が継続するとか、金利が急変しないとか、海外の市場が安定しているといった前提が多数含まれている。こうした前提がひとつでも予想外で崩れれば、数値はまったく意味を失う。
にもかかわらず、人はその「もっともらしさ」に安心感を覚え、信じたくなる。
株式市場の世界でも、未来の値動きに関する「予測」は日々、各方面から発表されている。「今後半年でS&P500は10%上昇する」「今年、株式市場は大暴落する」などの言説は、過去のチャートと整合性のあるロジックを伴って語られる。
だが、それも再現性のある理論でも何でもなく、ある特定の条件下での仮説でしかない。予測は、どこまでいっても固まることができない泥沼みたいなものだ。
2020年にパンデミックで世の中が一変するとか、2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻が原油価格や穀物価格を激しく変動させ、世界中の金融市場に影響を与えるとか、そういう突発事項を前年に予測できた人はひとりもいない。
AIや機械学習の進化によって、将来の予測はより精緻におこなわれると思う人もいるが、私はこれにも懐疑的だ。AIも予測不能な突発的な事象には無力だからだ。
つまり、どれだけ高度な分析手法を用いても、予想外が起こりまくる現実社会ではうまく未来を当てることができないのだ。アノマリー的な動きはあったとしても、絶対的なものではないし、かならず再現するとも限らない。
未来に対する合理的な態度とは、「わからないものを、わからないままにしておく勇気」を持つことに他ならない。(次ページに続く)
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