性能が悪かった日本車
このタクシーなどで使われていた車は、実はほとんどがメリカ車でした。
戦前の日本が、アメリカ車だらけだったというのは、いささか奇異に映るかもしれませんが、当時のアメリカ車は日本車よりもはるかに性能がよくしかも安価だったのです。
明治維新で近代化を推し進めるようになってまだ日が浅い日本は、アメリカに比べれば自動車製造業の発展はかなり遅れていたのです。
日本も、自動車に比較的早くから製造に着手していました。明治37(1904)年に山羽虎夫という発明家が蒸気自動車を、明治40年には内山駒之助という発明家がガソリン車を作っています。
フォードがT型フォードを開発した2年後の明治43(1910)年には、日本陸軍が大阪砲兵工廠で自動車の試作を開始しました。そして翌明治44(1911)年には2台のトラックが完成しています。これは「甲型自動貨車」と名付けられ、シベリア出兵の際には、23台が派遣されています。また当時すでにトヨタ、日産などもすでに自動車の製造に取りかかっていました。
軍部では、自動車を重要な軍需産業と位置付け、大正7(1918)年には軍用自動車補助法という国産メーカーを支援する策を打ち出していました。これは、自動車を製造したり、国内製自動車を購入した場合に、戦争のときに軍事転用するという条件で、補助金を支給するというものです。これは、アメリカ車の侵攻を食い止めるためです。
また当時、日本は輸入自動車には50%もの高い関税を課していました。現代日本では、アメリカが日本車に25%の関税をかけるかどうかで大騒ぎしましたが、戦前の日本はその倍の関税をアメリカ車にかけていたのです。
この高い関税のため、アメリカのフォード社、GM社は、日本で組み立て工場をつくることにしました。自動車の部品にも項目ごとに関税は課せられていましたが、一番高いエンジンの関税でも35%であり、完成車に比べれば低かったのです。そのため、部品を日本に持ちこみ、それを日本の工場で組み立てることにしたのです。
今、日本の自動車メーカーがアメリカや世界中の国々で行っていることを、戦前のアメリカの自動車メーカーは日本で行っていたのです。ちなみに現在、アメリカの自動車メーカーは、日本に工場は持っていません。
つまり、戦前の日米の自動車の輸出入状況は、現在とまったく逆だったのです。
フォード社は、大正14(1925)年、現地法人の日本フォード社をつくり日本で製造販売を開始しました。また昭和2(1927)年には、GM社も同様に日本上陸を果たしました。両社は、ノックダウン方式による大量生産を開始、そのため日本の自動車市場はほとんどこの二社で占められることになりました。
このアメリカ車の日本進出により、日本で育ち始めた自動車メーカーは壊滅的な打撃を受けてしまったのです。昭和5(1930)年から昭和10(1935)年まで、日本の自動車メーカーの普通乗用車の生産台数はゼロであり、トラックや小型乗用車を細々と作っていたにすぎませんでした。
そんなとき、日本の自動車産業の命運を左右するある重大な出来事が起きます。
昭和7(1932)年の熱河作戦の際に、陸軍は初めて本格的な自動車部隊を投入しました。熱河作戦では兵站が長いため、自動車による補給確保を試みたのです。
この熱河作戦では、日本製のトラックのほかに、アメリカのフォード、シボレーのトラックも大量に購入して投入されました。フォード、シボレーのトラックは、日本製よりもはるかに頑丈で性能もよかったのです。そのため部隊では日本製のトラックが支給されると残念がる、という状況が生まれていました。
これを見て、日本陸軍は「これはヤバい」と思ったのでしょう。アメリカ車締め出し政策を強化することになるのです。
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