戦争が終わった直後の混乱期に幼少期を過ごした昭和20年生まれの人々。そのなかから10人の著名人の証言を集めた『昭和20年生まれからキミたちへ』という書籍に参加しているメルマガ『佐高信の筆刀両断』の著者で辛口評論家として知られる佐高さん。その書籍のなかからすさまじい体験談をピックアップし、現代を生きる人たちへ『生きること』について問いかけています。
非国民の子
『昭和20年生まれからキミたちへ』(世界書院)という本が出た。
『東京新聞』に連載された「昭和20年に生まれて」から10人をピックアップしたものである。
落合恵子から始まって、池澤夏樹、松島トモ子、大谷昭宏、扇ひろ子、坂田明、東郷和彦、田辺靖雄、岡田尚、そして私と並ぶが、この中で私が会ったことのないのは、池澤、扇、田辺、岡田の4人である。
それはともかく、インタビューに答えて私は、私たちは「非国民の子」だと切り出した。
父親が戦争に行かなかったということだが、現在の排外主義的風潮に反発して、あえてそう言ったのである。
しかし、たとえば旧満州で敗戦を迎えた松島の体験談はすさまじい。
「母は親しくしていた中国人から赤ちゃんを売ってほしいと懇願されたそうです。相手は『帰国するまでに死んでしまう』と引かない。母は断りましたが、後年、中国残留孤児のニュースを見ると、自分はある意味、無謀にも手放さなかったけれど、あの状況では現地の人に託すのも子を愛する親心だったはずだと言っていました」
引き揚げ船では多くの子どもが死んで海に葬られた。
2歳以下の子どもで、その船で生還できたのは松島ともう1人の男の子の2人だけだった。
大人になって喧嘩をすると、母親は、
「あのとき、売ってしまえばよかったわ」
と冗談半分、まじめ半分に言った。
「そうしていたら、私は京劇の大スターになっていたわね」と松島は返したとか。
90歳過ぎまで元気だった母親が亡くなったのは2021年。100歳になっていた。
「認知症が深刻化してからは夜中、『ソ連の戦車がやってくる』と声を出し、私にたびたび助けを求めてくる。『大丈夫よ』と言っても聞かないんです。戦争の傷痕はいつまでたっても癒えないものです」
開戦時の外相として戦犯に問われた東郷茂徳を祖父とする和彦は自らも外交官となったが、茂徳の娘である母親から、茂徳が外交で大事にしていたことをこう遺言されたという。
「外交ではよく『勝ちすぎてはいけない。勝ちすぎるとしこりが残り、いずれ自国にもマイナスになる。だから、50対50で引き分けが良い』と言われる。でも祖父は『51を相手に譲り、こちらは49で満足することが重要だ』と言ったそうです。それで国内を説得する。もちろん、国益を損なうという反発も強いでしょうから、難航するでしょう。それでも、根気強く説得し理解してもらうしかない。少し損をしたようで、長い目で見れば自国にとっても良い結果になる。交渉後も対象国とは共存していかなければならない。相手を理解することが国益につながる。祖父はそう考えていたと言うんです。それを私に話してから数日後、母は他界しました」
トランプをはじめ、ファースト主義者には届かない忠告かもしれない。
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