エセ科学だった「鑑定書」の正体
従来この事件について歴史家は、良子(ながこ)女王やその父親の久邇宮邦彦王の方を批判的に語ることが多かった。
それは良子女王に「色盲遺伝子」があり、皇太子の子が色盲になるおそれがあったということが前提とされ、これに抵抗した久邇宮の側が「非科学的」で「頑迷」だったというイメージで見られたためだった。
だが石瀧氏はその「前提」を疑い、根拠とされた侍医の意見書や東大の5人の教授による鑑定書を詳細に検証。 その結果、意見書・鑑定書共に重大な不備があり、「エセ科学」に陥ったものと認めざるを得ないとの結論に至っている。
これらの意見書・鑑定書は山県有朋に対して提出されたもので、最初から山県に都合のいいように「結論ありき」で書かれていたと考えられる。 そしてこれが「東大教授」らの鑑定書だという「権威主義」によって、無条件に事の「前提」にされたまま今日に至っていたのである。
皇統問題について、令和の「有識者会議」が権力の望むとおりの報告書を書いたり、内閣法制局が「旧宮家養子案」を「合憲」と強弁したりしているが、これと似たようなことが100年前にもあったというわけだ。
頭山満と杉浦重剛は、かつては山県と共闘して活動していた。 そのために杉浦は山県自身の言動からその企みを察知できたのだが、杉浦ひとりではとても山県に太刀打ちはできなかった。 そしてここに頭山が加勢し、かつての同志であった山県と完全にたもとを分かち、戦うことになった。
もともと良子女王に色盲遺伝子があるという診断自体が非常に怪しかったのだが、頭山と杉浦は、仮に皇太子の子が色盲で生まれたとしても、そんなことは些末な問題にすぎないと考えていた。 それよりも血の優劣を根拠に、一度決まった縁談を覆すことの方が「人倫にもとる」と捉えたのである。
かくしてここに、「純血論」を取る山県有朋と、「人倫論」を取る頭山・杉浦連合の激突が始まったのだった。
紀元節に集結した反山県勢力
事件の最大の焦点になると見られていた日は、1921年(大正10年)2月11日の「紀元節」(現在の建国記念の日)だった。
この日、病気療養中の大正天皇の回復祈願などを目的とした「国民大会」が明治神宮で開かれる予定があり、そこに反山県の勢力が集結することになっていた。
キリスト教教育者・押川方義らによる「城南荘」グループ、頭山らの「玄洋社」、内田良平らの「黒龍会」、北一輝の「猶存社」、さらにはかつて山県暗殺を企図したことのある行動派グループまでがいた。
また、後の陸軍大将・岡村寧次少佐や、その上司・秦真次中佐がこれの後押しをしていたと見られる。 当時の陸軍大臣は山県の子分の田中義一だったから、岡村や秦の動きは陸軍内における「裏切り」ともいえた。
その前日には「数十万部」ものビラが配布されそうになり、警察に差し止められたとの記録もあったが、そのビラの制作費なども、陸軍の機密費あたりから出ていたのかもしれない。
もう、何が起こってもおかしくない状況だった。 しかし、いかに集会の自由が制限されていた時代であっても、紀元節に明治神宮で天皇の病気平癒祈願をするという集まりを中止させるわけにもいかない。 そうして緊張感が最高潮に達し、政権内でも動揺が広がっていった。
そんな中、紀元節前日の2月10日、内務省は「婚約の内定に変更なし」との発表を行い、事件は急転直下の解決を見たのだった。
これによって山県有朋は一気に失脚。 一切の官職・栄典の辞退を申し出て謹慎した。 山県は頭山と杉浦の名を挙げて「今度ばかりはあの二人にやられた」とこぼしていたというが、間もなく体調を崩し、その翌年満83歳で死去した。
山県の葬儀は国葬として日比谷公園で取り行われたが、「不参者の数は相当に多く、場内は寂しかった」という。
決定的に事態を動かした「国民大会」開催という計画について、頭山はどう動いていたのか。 いつもそうだったように、頭山は自ら表に立って動くことはなく、裏で動いた記録も残していないので、はっきりしたことはわからない。
だが、頭山の力なくしてこのようなことはできなかったのは、まず間違いない。 それがわかっていたから山県も、頭山と杉浦の「二人にやられた」と言ったのだろう。
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