昭和天皇が浪人に送った異例の勅使
そしてもう一人、頭山満こそがこの件の解決に最も功績のある人物だったということを認識していた人物がいた。
昭和天皇である。
昭和天皇はその後20年以上にわたり、宮中行事に頭山を招待し続けた。
そして1944年に頭山が死去すると、昭和天皇は勅使を派遣し、花一対を送った。 これは異例中の異例、前代未聞の出来事だった。
勅使差遣は皇族・華族・政府高官・高級軍人など社会的身分の高い人物、国家に功労のあった人物の死去・葬儀に対して行われる。
それなのに、生涯を通して無位無官、在野の一浪人だった頭山に勅使が遣わされたのだ。 こんなことを政府が判断するわけがない。 何しろ頭山は「宮中某重大事件」のみならず、亡命インド人、ビハリ・ボースを匿ったり、蒋介石の重慶政権を正式な中国政府と認めて和平交渉に臨もうとしたり、政府権力の方針に逆らうようなことばかりしていたのだ。
これは昭和天皇自らの判断、決定、指示以外には考えられない。
勅使差遣によって、頭山の葬儀は枢密院議長よりも格上、大勲位級の「事実上の国葬」となった。 そうして、空襲が警戒される戦争末期の東京において、2万とも3万とも、あるいはそれ以上とも言われる人々が葬儀に駆け付けたのだった。
石瀧氏は『頭山満 沈黙の昭和史』のまえがきに、つぎのように書かれている。
〈「綸言(りんげん)汗の如し」という格言がある。 綸言は天皇の言葉。 天皇の言葉は汗と同じで、いったん口から出ると取り消すことができないという意味だ。 将来、天皇となるべき皇太子が、軽々しく婚約を取り消すことは、その出発点において、天皇に課せられた生き方──「綸言汗の如し」に違背する事でもあった。 杉浦重剛が、将来の天皇の権威を傷つけられることを恐れたのはもちろんだが、加えて、不誠実な行いとして皇太子の心に刻印され、天皇となった後もそれがトラウマとなることを心配してもいた。 結果として皇太子は一方的な婚約破棄という汚名を着ることなく、国民の祝福を受けて結婚した。 〉
頭山は杉浦と共に天皇の尊厳を守り抜いたのであり、昭和天皇はそれに最大限の感謝を示しておられたのである。
さらに石瀧氏はまえがきに、「『昭和・平成・令和の皇室は頭山満がつくった』と言っても過言ではない。 後の昭和期以降の皇室の在り方が形成される上で、その端緒における頭山の役割は決定的だった」と書いているが、いただいたメールでは石瀧氏はこれに続けて「その目で見ると、現在の皇室典範改正問題は頭山が命をかけて守ったものの冒涜です」と憤っておられた。
全く「歴史を知らない」ということは恐ろしいものだ。 国会議員ともあろうものが、それも80歳も超えたジジイまでが、先人が命懸けで守ってきた宝物があるという歴史を一切知らず、クソガキが飽きたオモチャを床にたたきつけるような感覚でこれを破壊しようとしているのだ。
戦うしかない。 頭山の遺志を継いで戦うしかない。
もちろんわしなど頭山のスケールとは比べ物にもならないが、敵の麻生太郎だって山県有朋に比べりゃケシ粒みたいなもんだ。

とにかく「歴史は繰り返す」という言葉をいい方に解釈して、「宮中某重大事件」と同じように天皇の尊厳が守られる結末が繰り返されることを願いつつ、命懸けで戦ってみるだけだ。
皇室を守って戦う者がいるという事実を後世に残そう!
(『小林よしのりライジング』2026年7月21日号より一部抜粋・敬称略。そのほかの記事も満載のメルマガ『小林よしのりライジング』全文はメルマガ登録の上お楽しみください)
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