尊氏はこんなにムチャクチャだった。学校で教えてくれない南北朝時代

 

「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その1人が北畠親房である。

息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。

延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた「神皇正統記」を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。

「神皇正統記」は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。

(p 249)

南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。

すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである

(p 129)

南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が「神皇正統記で描いた理想によって結ばれていた。

「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。

建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。

正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。

(p 210)

正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。

後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。

以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。

新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。

足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が1つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛謀略裏切りの連続であった。

尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。

尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。

この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。

直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。

尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。

尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏3代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。

和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるということだったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。

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