美しいだけじゃない。「桜」が日本の象徴とされている本当の理由

 

桜と武士道

武士の世になって、咲いてはすぐに散る桜は、現世に執着せず、義のために命を捧げる武士の生き方の象徴とされた。「花は桜木、人は武士」とは、この理想を謳っている。

ここで思い起こされるのは、アメリカ映画『ラスト・サムライ』の結末シーンである。渡辺謙扮する「勝元」(西郷隆盛を思わせる大将)が戦いに負け、切腹する際に頭上から舞ってくる桜の花びらを見て、「Perfect! It’s all perfect(見事だ)」ともらす。勝った官軍側はみな、勝元の切腹に、ひざまづき、ひれ伏す。日本の武士道に対する深い敬意の籠もったシーンである。

『ラスト・サムライ』の原作者は、おそらく英語で武士道を紹介してベストセラーとなった新渡戸稲造のBushido』を読んでいただろう。『Bushido』の原著では、緑色の表紙にタイトルとともに、次の本居宣長の歌が朱色に刻まれているという。

「しきしまのやまとごころを人とはば朝日ににほう山ざくらばな」

そして、著者は本文の冒頭で「武士道とは、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らないい、日本固有の華である」と述べている。この歌の「やまとごころ」、すなわち大和魂こそ、武士の精神であり、その大和魂は桜に象徴されると考えていたのである。日本の国花が桜になったのも、この宣長の歌に基づくと伝えられている。

武士道を記した古典、山本常朝の『葉隠れ』には「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句がある。主君のためにはいつでも生命を投げ出すのが武士道であり、桜の潔く散る様こそ、その象徴だと見なされた。

「例のうるさきいつはり」

しかし宣長の歌には武士道につながるような意味があるのだろうか?

宣長は「漢心(からごころ)」を清く除いて、人間の生まれながらの真心(まごころ)こそ、人の生きる道とした。その「真心」とは何か、『玉勝間』でこう説いている。

うまき物くわまほしく、よき家にすままほしく、たからえまほしく、人にたふとまれほしく、いのちながからまほしくするは、みな人の真心也。

(旨いものを食べたい、よい家に住みたい、財産を得たい、人には尊敬されたい、長生きしたいとするのは、みな人の真心である)

 

然(しか)るにこれを皆よからぬ事にし、ねがはざるをいみじきことにして、すべてほしがらず、ねがはぬかほをするものの、よにおほかるは、例のうるさきいつはりなり。

(しかるに、これら皆よくない事として、願ったりしないことが大事だとして、すべて欲しがらず、願わない顔をする者が世に多いのは、例のうるさい偽りである)

「例のうるさきいつはり」とは儒教の道徳論のことで、人間の素直な心を偽った中国風の漢心」だと言うのである。

これに続けて、月花を見ては「あはれ」と愛でながら、美人には目もくれない顔をして通りすぎる「先生」なども、「いつはりだと論断する。

この「漢心」という嘘偽りを捨て去って人間の真心そのままに生きることこそ、日本人が古来から大切にしてきた「やまと心」だと、宣長は考えた。

「武士として、主君のためならば喜んで命を投げ出せ」などと説く声を宣長が聞いたら、それこそ人間の真心を偽る「漢心」だと言うだろう。

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