美しいだけじゃない。「桜」が日本の象徴とされている本当の理由

 

「義をなす勇」と「やまと心」

新渡戸稲造は「義を見てせざるは勇なきなり」と説いた。「とは、「をなすための勇気であって、被災者を助けたいという「」から、ガス漏れしているかもしれない危険な地にあえて赴いたのが「」である。

逆に「義なき勇、「蛮勇」「匹夫の勇」として戒められた。当時の菅直人首相は用もないのに危機の最中の第1原発を訪れるというスタンドプレーをしたが、これは「匹夫の勇そのものである。「匹夫の勇」で死ぬことを「犬死に」という。武士道はこういう所行を厳に戒めている。

自らの人気取りのために、吉田所長以下の懸命の作業を妨害した「不義の所行に多くの国民が怒った。これが「義憤」である。

全国から被災地に集まった約3,000人のガス技術者たちは、危険な地に行く恐れも当然あったであろう。万一の場合にはガス爆発で命を落とすかも知れない。

その恐れを乗り越えて、「お客さんのガスを止めるというのは、ガス業者として断腸の思い」として赴いた。これは「義をなす勇」である。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、死を恐れずに「義をなす勇」が、良く生きる道であることを逆説的に説いている。

そして、その「を感じとり、「を発憤させるのも、人間の持つ「やまとごころ」の働きである。「朝日ににほう山ざくらばな」を愛でるのも、被災者たちを救いたいと願うのも、素直な「やまとごころ」の自然な働きである。こう考えれば、新渡戸稲造が『Bushido』の表紙に宣長の歌を飾ったのも、牽強付会とは言えまい。

国花・桜

現代日本において、造幣局の通り抜けを埋め尽くす人々は桜を愛でる「やまとごころの持ち主である。在原業平が「世中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」と詠ったように、開花はいつか、天気はどうか、と一喜一憂する。

散り初めには、紀友則が「久かたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」と詠ったように、花の散りゆく様を惜しむ。日本人の桜を愛でる「やまと心」は千年前と変わっていない

のどかな春の日には桜を愛でる日本人が、一朝事あれば「義のための勇」を奮い起こして立ち上がるのも、その「やまと心」のゆえである。「漢心」では、桜を愛でることも知らず、「不義」も平気で見逃す国になってしまう。

国花の桜は文武両面で、見事に我が国の国柄を象徴しているのである。

文責:伊勢雅臣

image by: Sean Pavone / Shutterstock.com

 

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著者/伊勢雅臣
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