命がけでユダヤ人を守り抜いた日本海軍大佐・犬塚惟重の半生

 

米国ユダヤ人指導者の反日姿勢転換

ステファン・ワイズ・ユダヤ教神学博士は、米国のユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、全世界ユダヤ民族の指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、必ず影のようにワイズ博士がついていたと評され、その政策を左右する実力を持っていた。

このワイズ博士が頑迷な反日主義者だった。1938(昭和13)年10月、米国ユダヤ人代表会議での対日態度決定の討議でも、ワイズ博士がただ一人、対日強硬姿勢を主張したため、遂に未決定に終わったことがあった。1938年と言えば、その前年12月にハルピンで第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、この年3月には約2万人(一説には数千人)のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で満洲に押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって特別列車を出して救出していた。

こうした事実にも関わらず、ワイズ博士が反日強攻姿勢を貫いたのは、ナチス・ドイツ敵視からその友好国日本も同様の反ユダヤ国家と見なしていたためであろう。

しかし、上海のユダヤ人指導者から犬塚提案がもたらされると、ワイズ博士の態度は大きく変わった。東京在住のユダヤ人を通じて、次のような回答がもたらされた。

ユダヤ避難民問題を日本において解決せんとの案なれば、それがいかなる提案にせよ、もし日本の権威ある筋よりのものとせば、我らユダヤ機関は深甚の考慮を以て受理すべきものなり。

またワイズ博士はその友人に、もし真に日本政府が満洲国においてユダヤ避難民問題の解決に興味を有するならば、「公然と日本の友たるべき決心」である旨を伝えたという。

ユダヤ人の日本支援案

居住区設定に対しては、陸軍側から、これ以上の難民収容は物理的に困難だとか、ナチスの反ユダヤ思想に影響されての反対があったが、犬塚大佐は粘り強く反論していった。犬塚大佐の根回しが奏効しつつあった1940年9月、大佐の意を受けた日本人ビジネスマンが、ニューヨークでユダヤ首脳と会談し、次のような合意に達した。

日本側は上海虹口側に住むユダヤ難民1万8,000人を含めて3万人を上海浦東に居住地区と定め、米国ユダヤはこれに対して2億円の対日クレジット(貸付け枠)を設定し、うち1,200万円で避難ユダヤ人の失業救済として皮革会社を設立し、残余の1億8,800万円は日本の希望する物資、屑鉄、工作機械などを無制限に供給する。これの公式請願と具体案協議のため、米国ユダヤ数名を日本に派遣する。

米国の戦略物資の対日禁輸を打ち破るかもしれない画期的な合意だった。ワイズ博士の親日への転向が大きな原動力となっていたのであろう。

米国の禁輸政策が、日本の軍事力を時々刻々と弱め、座して死を待つよりは、と開戦に立ち上がった経緯を考えれば、この合意が成立していれば、日米開戦は避けられたかもしれない。しかし、それからわずか1週間後の日独伊三国同盟締結のニュースが、この合意を吹き飛ばした。ユダヤ首脳は次のように言って、肩を落とした。

実は日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種偏見を持たず、公平に扱ってくださる事実はいろいろな情報でよく知っていました。その好意に深く感謝し、今回の借款でその恩に報い、われわれの同胞も救われると期待していましたが、今日の米国政府首脳や一般米人の反日感情の大勢に逆行する工作を行う力はありません。政府は対日クレジットや戦略物資輸出は許可しないでしょう。残念ながらわれわれの敵ナチス・ドイツと軍事同盟した日本を頼ることはできなくなりました。

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