おそらく手にしたことがない人はいないであろう国語辞典。その中にあって、国民的辞書の呼び声高い「明解国語辞典」を共に編纂するもやがて決別、それぞれがその後、またも日本を代表する辞書を1冊ずつ作り上げたという二人の「超人」の存在をご存知でしょうか。無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』では、そんな男たちを丹念に追った話題の書が紹介されています。
『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』
佐々木健一・著 文藝春秋
遠藤周作が自著で率直に不快感を述べているのが「生きざま」である。
私の知る限り「死にざま」という言葉は昔あったが、「生きざま」という言葉は日本語になかったと思う。だから「生きざま」なる言葉をテレビで聞くとオヤッと思う。そしてやがて「生きざま」という美しくない日本語が新しい国語辞典に掲載されることを憂えてしまう。そんな言葉は美しくないからだ。
(遠藤周作「変わるものと変わらぬもの」)
「ざま」は「ざまをみろ」などというように、人の失敗などを嘲ることばとして、古くから使われていたから、今でも抵抗感を抱く人は少なくない。わたしも大嫌いな言葉の上位に置く。
ところが「生きざま」を徹底的に擁護したのが三省堂「新明解」第四版だった。
いきざま【生きざま】 その人の、人間性をまざまざと示した生活態度。「ざま」は、「様」の連濁現象によるもので、「ざまを見ろ」の「ざま」とは意味が違い、悪い寓意は全く無い。一部の人が、上記の理由でこの語をいやがるのは、全く謂われが無い
とある。そうだったのか、考えを改めまする。このことを佐々木健一『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』で知った。この本は、国民的辞書、三省堂「明解国語辞典」をともに作ってきた二人の編纂者がなぜ決別し、なぜ二つの辞書が生まれたかの謎に迫る。