日本近代史の謎。西郷隆盛は本当に「征韓論者」だったのか?

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2018年の大河ドラマの主人公にも決定している西郷隆盛。インパクトのある風貌は今でも「西郷どん」と親しまれていますが、後半生は謎に包まれています。その一つが、西南戦争を起こした理由。日本という国を愛していた西郷が無謀とも言える内戦を起こした理由は、どこにあったのでしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、そんな謎に鋭く迫っています。

西郷隆盛はなぜ立ち上がったのか

西郷隆盛の後半生はどうにもよく分からない、というのが、私の長年の疑問であった。前半生は、倒幕の中心人物として見事な成功を収め、特に江戸開城では勝海舟との絶妙のやりとりを通じて、江戸の町を戦火から救う

また新政府軍に抵抗した庄内藩の人々は西郷隆盛の寛大な措置に感激し、西郷への尊敬の念から前庄内藩主酒井忠篤らが『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では元庄内藩士が西郷軍に参加している。

これほどの有能有徳の人物が、新政府樹立後は征韓論に組し、それが容れられないと鹿児島に帰ってしまい、ついには俸禄を取り上げられた不平士族に乗せられて西南戦争を起こした、と言われると、前半生とはまるで別人のようだ。「西郷が明治を境にバカになった」などと言う説もあるようだが、この疑問に対する苦し紛れの解答だろう。

この疑問を氷解させてくれたのが、岩田温氏の『日本人の歴史哲学―なぜ彼らは立ち上がったのか』である。今回はこの本の第3章「西郷隆盛と日本の近代」を参考に、西郷隆盛の後半生に迫ってみたい。

西郷は「征韓論者」だったのか?

まず、征韓論について、ある高校生用の参考書には、こんな記述がある。

幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。政府部内でも西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎…らの参議がいわゆる征韓論を唱え、1873(明治6)年8月には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えて朝鮮の開国を実現させる方針を内定した。
(『詳説 日本史研究』)

まるでアメリカが黒船による脅しをかけて日本に開国を迫ったのと同様のことを、日本が朝鮮に行うつもりだったかのようである。西郷はそのような征韓論者だったのか?

西郷が征韓論者であったという説は、次の板垣退助にあてた手紙を根拠としている。

是非此の処を以て戦ひに持ち込み申さず候はでは、迚(とて)も出来候丈ヶに御座なく候に付き、此の温順の論を以てはめ込み候えば、必ず戦ふべき機会を引き起こし申すべく候に付き、只此の一挙に先立ち、死なせ候ては不便(ふびん)抔(など)と、若しや姑息の心を御起こし下され候ては、何も相叶ひ申さず候間。

 

(この機会に戦いに持ち込まないで、朝鮮との国交を回復するのはとても出来そうにありません。この至極もっともな論を以って朝鮮との国交を考えるのであれば、私を朝鮮に派遣して万一殺害されるようなことがありましたら必ず戦う機会が転がり込んできます。ただ挙兵に先立ち、私を派遣して死なせては気の毒であると一時の憂いをお感じになっているのであれば、何も叶わないでしょう。)

「西洋は野蛮ぢや」

たしかにこの部分だけ読めば、西郷は朝鮮との戦いを起こすために、自分が使節として殺される事を望んでいるように見える。しかし、ここで『西郷南洲遺訓』の中の次の言葉と読み比べてみるべきだろう。

予嘗(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。

 

(私は、かつてある人と議論をしたことがある。私が西洋は野蛮であると主張すると、その人はいや文明国だと主張し議論になった。私が再度西洋は野蛮だと畳みかけて言ったところ、その人はどうしてそれほどにまで西洋を野蛮というのかと私に尋ねてきた。私が本当の文明国であるならば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説き諭して文明化に導くべきであるのに、未開蒙昧の国であればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野蛮であると言った。すると、その人は口をつぼめて何も言い返すことが出来ないと苦笑していた。)

真の文明国とはこのような道義を行う国だ、というのが、西郷の考えだった。朝鮮との戦争を引き起こすために、自分がまず殺される、などという策略を用いるのは、西郷にして見れば「野蛮」なことだった。

桶谷秀昭は『草花の匂ふ国家』の中で、「これは板垣の征韓論と自分のそれとがちがふことを知つたうへでの西郷の計算であらう」と断じている。すなわち、武力行使を前提とした征韓論者の板垣に、自らを全権大使として派遣させることを納得させるための、西郷の方便だったと言うのである。

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