未来の国民のための「記憶」
この一文について、岩田氏はこう述べている。
ここで西郷が「後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候(後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように)」と文章を遺している事実が何とも感慨深い。西郷はあくまで最後まで戦い抜くことによって後世の国民へと敢闘の記憶と無言のメッセージを遺したと考えられよう。
(『日本人の歴史哲学―なぜ彼らは立ち上がったのか』)
その「敢闘の記憶」は何のためか。「無言のメッセージ」とは何か。岩田氏の解答はこうである。
後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそが西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。
それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。何故ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶をもつ国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあきらかであろう。そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ。
(同上)
事の成否を問わず、ある崇高な理想のために命を捧げた人々が、我が国の歴史にはたびたび登場する。楠木正成あり、吉田松陰あり、そして大東亜戦争での特攻隊員たちがいる。西郷とその弟子たちもその系譜に連なっているのである。
こう考えてくると、「彼らが命を懸けてまで守ろうとした未来に、私たちは生きている」という以前紹介した映画『男たちの大和』のコピーがしきりに心に浮かぶ。しかし、その未来に生きる私たちは、今度は私たちの子孫のために、どのような「記憶」を残そうとしているのだろうか。
文責:伊勢雅臣
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