あくまでも相手
「会話をしていても共感できない私は冷たいのでしょうか」という相談がたまにあります。
聞いてみると、「共感」しようとしているつもりで、「私だったらどうか」を考えているだけ、というケースが多い。
「描いた絵が県展に入選した」と喜んでいる人を前にして、「私はべつに絵には興味ないから、県展とか入ってもそんなうれしくないし……」
「いくら理不尽な上司だとしても、私だったらはっきり意見を言うからストレスなんて感じないし……」
これでは共感にならなくて当たり前。たんに自分基準で世の中を裁いているだけです。
「ずっとがんばって取り組んできた絵が、10年かかってやっと県展に入選したというのは、私でいうとピアノのコンクールで本選に進めるようなものかな。だとしたら彼女は今、すごくうれしいだろうな」が共感です。
「言いたくても言えない相手がいるのは私にもわかる。そんな相手に毎日近くで理不尽な指示をされたら、彼女はつらいだろうな」が共感です。
「彼女は今、うれしいだろうな」「彼女はつらいだろう」であって、「私もうれしい気分になってきた」「私もつらくなってきた」ではないところがポイントです。
あくまでも、自分ではなく、相手です。
「私なら」が入ったら、共感ではなく同一視になってしまう。
いくら身近な相手でも、同一視は成熟した大人の感覚ではありません。母親と娘のようにきわめて近い関係であっても、同じことです。
ケガをした幼い娘を見て、自分まで痛い「気がする」程度ならあっても、本当に痛くなって、一緒になって泣いていたら、大人とはいえないでしょう。
「大丈夫?」は共感でも、「私まで痛い~」は共感ではない。
「共感」が大事なものであり、難しいものであるといわれる本当の理由が、わかってきましたか?
「感情移入しすぎないで」は「同一視しないで」
歌や演技の指導で「感情移入しすぎないように」と指示されることがあります。
逆ではありません。「感情移入しすぎてはいけない」というのです。
なのに、同時に「内容を理解して、登場人物の気持ちになって」とも指導される。
これはまさに、「共感」はしても「同一視」にならないように、と解釈することができます。
歌っていて気分が高まりすぎて歌えなくなる歌手は、「共感」ではなく「同一視」になっている可能性があります。
「共感」であれば、涙が出たとしても、歌えます。歌の内容をあとに引きずりません。別の歌を直後に歌えます。
ほかにも、「今こうして歌っているのがあまりにうれしくて、胸いっぱいになってしまった」という泣き方もありますから、一概に「泣いたら同一視」とはいえませんが、同一視なのか共感なのかは、歌い手はたいてい自分でわかります。
「囚われの姫が嘆くアリア」を歌っていて、「なんか気持ちが滅入ってきた」としたら同一視になっているといえるでしょう。
「姫はつらいだろうなあ。わかるなあ」という涙なら共感、姫になりきって「こんな私の運命、つらすぎる……」は同一視です。
本当の「共感」を身につけましょう。
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『伝授!潜在意識浄化法』より一部抜粋
著者/齋藤翔
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