2026年4月に亡くなった漫画家・東海林さだおさん。食や日常を独特の観察眼とユーモアで描き続けたその作品群は、多くの読者に「笑い」と「共感」を届けてきました。しかし、その軽妙な筆致の裏には、売れない時代への焦燥や、共に夢を追った盟友・福地泡介との深い絆がありました。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では辛口評論家として知られる佐高信さんが、追悼譜として彼らの歩みを振り返っています。
追悼譜 東海林さだお
東海林が亡くなって、盟友だった福地泡介の『ホースケの読んでいいとも』(住宅新報社)を開く。
その「すばらしき仲間」の項に「東海林さだおさん」が登場し、中にこんな一節があった。
「以前、落合恵子さんに『福地さんはニオイのない人』と、なにかに書かれた。
つまり生活のニオイ、家庭生活、仕事生活のニオイがしないということらしいが、ぼくから見ると、東海林がそうである」
共に昭和12年生まれで、早稲田の漫画研究会で2人は出会ったが、福地が1995年に57歳で亡くなって東海林はショックを受けた。
プロになろうと決意し、一緒に挨拶状をつくって、出版社や新聞社に注文を求めた仲だったからである。
東海林の実家の八王子の酒店を連絡先にし、漫画の御用命はそちらにと印刷した。
「僕は大学も中退だし、追い込まれていました。福地が売れ始めてすごい焦りがありましたね」
東海林は『日刊スポーツ』の2014年8月16日付でこう述懐しているが、福地にとっても「売れ始めた」ことと、「食える」ことは別だったろう。
出版社への持ち込みもやったが、どうしても編集部のドアが開けられない。そのまま帰ってきたことも一度や二度ではなかった。
しかし、どんなに辛くても、やめようとは一度も思わなかったという。
サトウサンペイのサラリーマン漫画に触発されたりして、東海林は自分のスタイルを確立し、『ショージ君』などの連載漫画も始まって、ようやく「食えるようになった」のは29歳の時だった。
「初連載の原稿料は1ページ2,500円で、8頁分の2万円を小切手でもらった。
アパート代が一畳1,000円の時代です。
当時は銀行口座も持っていなかったので、小切手を現金にするために振出銀行の窓口に行ったことを覚えています」
1960年代半ばの物価事情を、東海林はそう回想している。
いま、東海林が心配しているのは、ナンセンス漫画が衰退していること。
劇画家志望の若者は多いが、漫画家志望は少ない。
「僕なんか、いつ売れなくなるのか、気が気でなかった」
と東海林は告白している。
それに耐えて、窮屈な時代や空気を笑い飛ばそうという若者は、ほとんど絶滅危惧種なのだろう。
東海林がそれに耐えられたのは、福地泡介という存在があったからだ。
ライバルでもあり、互いに励まし合う友でもあった。
その福地が亡くなって、ちょうど20年目に、東海林は『毎日新聞』連載の『アサッテ君』の幕を閉じた。
一般全国紙の連載漫画で最長不倒となる13,749回が掲載されたのは2014年12月31日。
当時、東海林は喜寿の77歳だった。
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