米は炊かずに蒸していた?日本最古のおにぎりから知る古代人の食事情

 

江戸時代、日本海を回った北前船では、面白い歌が歌われていました。「 能登のふくらの引っ張り餅は、誰が引くやら切れはせぬ」船乗りの人たちは、保存食であった、このふくらの引っ張り餅を食べていました。
ふくらは、福浦です。ついた餅を、水の中に入れて、それを四方八方から引っ張って伸ばして作るそうです。薄く広げると、それを乾燥させて保存食として食べていたのだそうです。

江戸時代はもちろんですが、義経の伝説としても残っており、義経と弁慶がこの地に流れて来て、弁慶が杵で餅をつかずに、手でこねては引っ張り、手でこねては引っ張りして、最後は水の中でのばして保存食としたのが、この引っ張り餅の始まりだという伝説です。

源義経が畿内から奥州に逃亡した際、源平盛衰記や義経記が、その時のルートを北陸を通ったとしている為、多くの伝説が残るようになりました。奥州平泉に行ったのは史実ですが、本当に北陸を通ったかはわかっていないのです。ただ、私は義経の伝説の中にも、その地方に語り継がれた内容が混ざって残っているのだと考えています。

中能登町と、福浦は同じ能登半島でも離れていますが、私は共通するものが潜んでいるように思うのです。餅を食べる習慣が強い地域は、米を蒸す地域だとも言えます。蒸した米を、弁慶ばりに手でこねて伸ばして作ったとするなら、もしかすると、この二等辺三角形のおにぎりのようになったのではないかとも思うのです。

対馬海流に乗り、能登まで渡ってきた人々は、まさに稲作を伝える文化を持つ人々だったと思います。四隅突出型墳を作る出雲の人達と同じ部族であったのかもしれません。彼らが持ち込んだ文化は、後日、日本で花開いた「米を炊く」という食文化ではなく、「米から餅を作る」という文化だったのかもしれません。

最古のおにぎりのはずが、最古の餅の原型だったのかもしれませんが、うるち米ともち米はとの区別がなかった時代ですから、蒸した米であったとしても、ぐっと握ったおにぎりだったとも言えるでしょうし、餅だったとも言えるのかもしれません。ですから、決して日本最古のおにぎりであるということを否定しようというのではありません。
ただ、食文化の豊かな能登半島だからこそ、おにぎりにしてしまうのは惜しいかなとも思います。

中国が春秋戦国時代であった頃、楚の政治家であった屈原はその将来に絶望し入水自殺をはかりました。紀元前278年のことです。この時、民衆は屈原の亡骸を魚が食べてしまわないようにと、笹の葉に包んで米の飯を川に投げ込んだのだそうです。これが、中国で始まったチマキの起源だとされています。

台湾や新潟県にはチマキの原型に近い作り方が残っていると言われています。新潟には笹団子の形で、笹に巻いて食べる習慣も残っています。稲作を伝えた人々は、同時にちまきに似た米の食べ方も伝えていたのかもしれません。能登に残った、二等辺三角形の炭化米塊も、これと同じであったかもしれません。そう考えると、笹の葉ににまかれていたのかもしれません。
最古のおにぎりは、私達に古代人のイメージを無限に膨らませてくれるのです。

image by: Shutterstock

 

古代史探求レポート
著者/歴史探求社
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