台湾の「日本好き」が過去最高に。なぜここまで相思相愛なのか?

 

このように、多くの日本人は台湾の文明化に命を賭して挑んできました。たとえば、農業水利事業に貢献した八田與一、台湾糖業の発展に尽くした新渡戸稲造などは有名ですが、現在でも台湾人に尊敬されている日本人に「六士先生」がいます。

六士先生とは、台湾の芝山巌(しざんがん)で土匪(どひ)に襲撃され命を落とした6人の日本人教師のことであり、大義のために危険を顧みなかったその姿と気概が「芝山巌精神」としていまもなお多くの台湾人に語り継がれているのです。

台湾における日本の教育改革は、戦後、「植民地教育」であるとよく非難されますが、私は小学校に入るまで母からよく「芝山巌精神」を聞かされ、「教育勅語」を暗記したものでした。そこには、戦後に非難されるような悪いイメージはありません

明治28(1895)年6月、清国兵士によってさんざん略奪、放火された台北に無血入城してきた日本軍は、民家を借りてすぐに国語教習を開始しました。

この当時、伊沢修二学務部長は6名の学部員を引き連れ、台北城北部の八芝蘭にある恵済宮の寺廟に学務部を設置。そして、芝山巌学堂にて日本語教育をはじめたのです。開始当時の生徒はわずか7名でした。6人の教師の名は、次のとおりです。

楫取道明  山口県出身 39歳
関口長太郎 愛知県出身 39歳
中島長吉  群馬県出身 37歳
桂金太郎  東京府出身 37歳
井原順之助 山口県出身 24歳
平井数馬  熊本県出身 18歳

六士先生のひとりである楫取道明の母親は、吉田松陰の妹の寿子と小田村素太郎(後に揖取素彦と改名)との間に生まれた子でした。父は、松陰の後継者といわれ松下村塾の塾頭として活躍し、後に貴族院議員として男爵まで授けられています。

道明は華族に列せられながらも開化教育に燃え、「化外の地」にみずから進んで赴いた、台湾教育に献身するさきがけ的存在でした。最年少の平井数馬は、日本最年少の16歳の若さで高等文官試験に合格した優秀な人材でした。日本はこうしたトップクラスの俊英を台湾の教育のために送り込んだのです。

当時、六士先生らは芝山巌はいつ土匪が来襲するか分からない危険な場所であると、教え子たちから聞いて知っていました。教え子たちからは、早く逃げろとも勧められていました。しかし、当時の「先生」としては、逃げることなどできるわけがありません。なぜなら彼らは、開化教育に献身するという大義名分を持っており、日頃から生徒にもそう説いていたからです。

六士の大義名分を護る意志は堅く、次のようなことを常日頃から生徒に説いていました。

日本による台湾の占領は略奪の結果ではない。日本の天皇陛下と支那の皇帝陛下との条約によって決められたことであり、我が師に向かって敵するのは支那の皇帝に不忠を働くことであり、大義名分を知らぬことである。

確かに、この説には一理あります。国際法的には、下関条約によって台湾を日本に永久割譲することが決定したのです。この論理で考えれば、芝山巌から早く逃げろと言われても、生徒に向かって大義名分を説いている教師が、やすやすと使命を投げ出して逃げられるわけがありません。楫取道明は、その覚悟のほどを次のように言っています。

我々は平常生徒に向かって、大義名分を能く教訓して良民にしようというに、今匪賊が来たからといって逃げるとは何事ぞ、止まって彼らを説得するのが当然である。我らは国家のためには生命も惜しまぬということは常に言うておる。それに、我らが逃げたとなったら教育者の本分が立たぬ。

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