歴史に詳しい方でも、「袈裟御前(けさごぜん)」という人物の存在について詳しく知る人は少ないのではないでしょうか。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、ある意味鎌倉幕府の生みの親とも言える、この袈裟御前と遠藤盛遠(もりとお)の悲しすぎる恋物語と、京都市内でいち早く紅葉が見られる「神護寺」の魅力が紹介されています。
袈裟御前と神護寺 ~歴史を変えた男女の仲~
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて文覚(もんかく)という僧がいました。平清盛率いる平氏に流刑にされ、挙兵する気のなかった源頼朝を配流先の伊豆に出向いて説得した話は有名です。
文覚は遠藤盛遠という北面の武士でした。この時代は歴史上初めて武士が台頭してきた頃で、鳥羽上皇を守護する北面の武士はエリートとされていました。
同僚には平清盛や源渡(わたる)がいました。盛遠はこの渡の新妻に恋い焦がれていました。それが袈裟御前です。袈裟は気品があり桔梗の花のように美しい人だったと伝わっています。
盛遠は袈裟が独身の身で、鳥羽上皇の皇女に仕えていた頃から想いを募らせていましたが、渡に嫁いでしまいました。2人は他人から羨ましがられるぐらい仲の良い幸せな夫婦でした。しかし、盛遠は袈裟への思いを諦め切れませんでした。
言い寄ってくる盛遠に袈裟はきっぱりと断りました。しかし、盛遠は「ならば、そなたの母を殺し、我も腹を切る」と 恐ろしいことを言い出すのです。すると困り果てた袈裟は「わたくしは夫のある身でございます。いっそのこと夫を亡きものに」と言い放ってしまうのです。そうすれば、「あなた様の御心に沿えましょう程に」と泣きながら言いました。袈裟への想いに溺れていた盛遠には理性などありませんでした。袈裟は盛遠に自分の夫の寝どころを教え、夫・渡の首を討つことを告げるのでした。盛遠は袈裟の言葉通り実行に移します。