平安時代「絶世の美女」にまつわる、京都・恋塚寺の悲しすぎる物語

 

首を斬り落とした盛遠はそれを抱いて屋敷から走り出し、月明かりの中でその首を見て仰天しました。 それは、なんと渡ではなく愛しい袈裟の首だったのでした。一途に自分を想ってくれる盛遠と愛する夫・渡との板挟みになって悩んだ末の悲しい決断でした。

盛遠は袈裟の首を抱いて鞍馬の山奥をさまよった果てに出家しました。武士を捨て名前も文覚と改名し様々な場所で荒行に励んだといいます。京都に戻ってきた文覚は荒れ果てた神護寺の再建を果たそうと試みます。後白河法皇に何度も強訴を繰り返したことで伊豆に流されますが、次第に親しくなっていきました。

そして、神護寺再建の院宣(上皇からの命令文)まで入手して 頼朝に挙兵を説得するまでになるのです。頼朝は文覚の勧めで挙兵し鎌倉幕府を設立し征夷大将軍となるのです。

袈裟御前は「平家物語」の中でしか出てこないような人物ですが、盛遠を生まれ変わらせた歴史上重要な人物です。もし、袈裟がいなければ源頼朝は鎌倉幕府を開いていなかったでしょう。そう考えると袈裟御前は日本史上、実に大きな存在であったと思わざるを得ません。このようなことを知ると今の世の中はいかに偶然の上に成り立っているのかが分かります。そして、このように袈裟よりももっと無名な人物が歴史を変えてしまっていた可能性も多くあったことを伺わせます。

京都駅の南、高速の京都南インターチェンジから国道1号を南に少し進んだ場所に赤沼の交差点があります。そこから600mほど南に進んだところを西側に入った住宅地の中に恋塚寺という小さいお寺があります。遠藤盛遠と袈裟御前の物語に由来する浄土宗のお寺です。自らの行為を恥じた盛遠は、出家して文覚と名のり、袈裟を弔うためにこの寺を建てたと伝わります。本堂には、袈裟御前、文覚、袈裟の夫・源渡の像がひっそりと安置されています。私が訪れたときに目印にしていた赤沼という交差点の地名には恐ろしい由来がありました。それは以前ここにあった池で盛遠が袈裟の首を洗ったら水が赤く染まり、赤沼と呼ばれるようになったと伝わっているのです。

袈裟と盛遠の物語の詳細は芥川龍之介の袈裟と盛遠」にこの伝説が描かれていますのでご興味がある方は是非ご一読下さい。

image by: Google Streetview

 

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