家康の「歓迎」に驚いた異国人。日本とメキシコの知られざる絆

 

太平洋をわがものとしたスペイン

16世紀後半から17世紀初頭にかけて、太平洋はスペイン人のものだった。マゼランの世界周航以来、南北アメリカ大陸の両岸に勢力を拡張し、インカ帝国やアステカ帝国を滅ぼし、今のメキシコを植民地として、銀などの富を欲しいままにした。

スペイン人はさらに太平洋を横断し、中国との交易の基地としてフィリピンを植民地化した。「フィリピン」の名は当時のヨーロッパで権勢を誇っていたスペイン王フィリペ2世にちなむものだ。

そして太平洋を挟むメキシコとフィリピンを結ぶ航路が開拓された。メキシコからフィリピンへは、北赤道海流と呼ばれる西向きの海流が船を運んでくれる。東向きには一旦北上して、黒潮に乗ると、日本の犬吠埼のあたりで海流は東に曲がってアメリカ大陸の西岸に到達する、というルートが見つかった。

船も3~4本のマストに巨大な帆を張って、海上を疾走する1,000トンクラスの巨大帆船・ガレオン船が開発された。逆風でも帆走できる技術も使われ出した。

サン・フランシスコ号の遭難

1609(慶長14)年、フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコは、メキシコへの召還命令を受けて、サン・フランシスコ号、サンタ・アナ号、サン・アントニオ号の3隻の艦隊を組んで、7月25日に出発した。金銀香料など現在価値にして200億円もの財宝を積み込んでいた。

サン・フランシスコ号には日本人が1人乗り込んでいた。当時、日本人も朱印船貿易でシャム(タイ)やルソン(フィリピン)に日本人町を作るほど進出していた。マニラには1万5,000人もの日本人が住んでいたという。その1人ケンは、蜂須賀家の雑兵として関ヶ原の戦いに参加し、敗残兵として堺に逃れて、そこからルソンに渡った。

そこで水夫の仕事をしているうちに、ロドリゴ配下の航海士に巡り会って、サン・フランシスコ号の乗組員となったのだった。

しかし出航が通常より1ヶ月も遅れたせいで、5回も台風に巻き込まれ、たちまち船団はバラバラになり、サン・フランシスコ号はメイン・マストを切り倒すところまで追い込まれた。さらにマニラを出てから67日目の9月28日夜、海図上ではあるはずもない暗礁に乗り上げてしまった。いまにも沈没しそうな甲板の上で、ロドリゴらは神に祈りながら夜を明かした。

「彼らは大いに憐れみ」

夜が明けると300メートルほど先に陸地が見えるではないか。海図では日本の位置が北に2度ほどずれて記入されており、知らないうちに日本の海岸に乗り上げてしまったのだった。ロドリゴは海図の誤りを指摘しつつも、この陸地を授けてくれたのは神の思し召しかも知れぬ、と後に「日本見聞録」に記している。

しかし、ロドリゴは警戒を緩めなかった。13年前にサン・フェリペ号がやはり台風で航行不能になり、土佐に漂着した時には地元民に助けられながらも、秀吉により積み荷をすべて没収され、長崎のポルトガル人やマニラ在住の日本人に助けられて、なんとかマニラに帰る事ができた。この時は、サン・フェリペ号の水先案内人が世界地図でスペイン王国の版図を示して威嚇したために、秀吉は彼らを日本占領の尖兵だと考えたのである。

またロドリゴ自身、2年前にマニラ在住の日本人がスペイン政府の厳しい統治に対して反乱を起こした時に、彼らを日本に強制帰国させていた。日本人はこの事をまだ恨んでいるかも知れない。しかし、その処置を家康に通知すると、家康からは「日本人の処分に抗議せず」という返書が来た。もしかしたら家康はロドリゴの処置を寛大なものとして感謝しているのかもしれない、という期待もあった。

ロドリゴたちは木の切れ端などにつかまって、上陸した。土地の住民が現れて、ケンが話を始めると、ここはユバンダ岩和田)という浜だと分かった。今の御宿のそばの浜辺である。ロドリゴはこう記している。

我々の不幸な経緯を述べると、彼らは大いに憐れみ、女性たちは非常に同情深いために涙を流した。そして彼らは進んでその夫らに向かい、キモーネ(着物)と言う綿を入れた衣服を我々に与えてください、と請うたので、夫らは我々に多くのキモーノを与え、また食物を惜しみなく提供してくれた。

この時に、海女たちが駆けつけて海に潜って遭難者を救出した、あるいは、自分の体温で瀕死の者を温めた、というエピソードも伝えられている。ケンが指揮して、人数調べをすると、乗組員総数376人のうち、溺死者16人、行方不明者43人、救助された人数は317人だった。

トノの接吻

やがてオンダキ(大多喜)のトノ殿様)が家来を引き連れてやってきた。徳川四天王と呼ばれた本多忠勝の息子・大多喜藩主・本多忠朝である。重臣会議では「異人は切って捨てるべし」という強硬意見もあったが、忠朝は厚遇すべしと主張した。

村人達はトノの一行を土下座して迎えたが、ロドリゴはそのような習慣がないので、立ったまま迎えた。するとトノはロドリゴの手を取り、接吻したのだった。ロドリゴはトノが自分の国の作法を心得ているのに驚いた。

その後、席に着くときにはトノはロドリゴに強いて上席につかせた。さらに驚いた事に、トノは豪華な着物4着、刀一振り、牝牛1頭、果物、酒などの進物まで持ってきていた。そして、現在、駿河の皇帝(家康)の訓令を仰いでいるので、しばらくユバンダ村で待つように言った。

ロドリゴの一行約300人は村人達の家に分宿して、37日間もこの村に留まった。

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