家康の「歓迎」に驚いた異国人。日本とメキシコの知られざる絆

 

家康からメキシコ副王への書

提供されたガレオン船は小型なので、乗組員を3分の1に絞り、残りの者は長崎からマニラに戻した。ロドリゴはガレオン船をサン・ブエナ・ベントゥーラ号と改名し、2ヶ月をかけて太平洋を横断しメキシコに帰国した。京都の商人・田中勝介ら22名の日本人も同乗しており、彼らが太平洋を横断した最初の日本人となった。勝介一行は家康の協定書も携えており、その中には、お互いの船や商人を厚遇すること、相互に自由貿易を認めること、宣教師の自由な布教活動を認める、などを約していた。

メキシコ副王はロドリゴらの報告を受け、翌年、遭難民送還に対し謝意を表するため、探検家で宣教師のビスカイノを訪日させた。田中勝介らも、同乗して帰国した。しかし家康の協定書については、国庫が窮乏中なので、とやんわり拒絶した。

ビスカイノは伊達政宗からスペイン行きを命ぜられた支倉常長(はせくらつねなが)の船に乗ってメキシコに帰国した。家康からメキシコ副王にあてた返書を持ち帰ったが、それにはキリスト教の布教を禁ずるとあった。オランダ国王から家康宛に、ポルトガルに日本侵略の意図があるという密告があり、それが家康の方針変更をもたらしていたのである。

日墨の不思議な縁(えにし)

キリスト教宣教師を尖兵とした侵略の疑いから、日本は鎖国政策をとり、ロドリゴの漂着をきっかけにはじまった日墨友好の機縁も火が消えてしまったかに見えた。しかし、友好の火種はその後も長くくすぶり続けていた

明治21(1888)年11月3日、わが国はメキシコとの通商条約を結んだ。それまでの米国や英国との条約は不平等なものであり、その改正には明治後半までかかるのだが、日墨修好通商条約は、わが国がアジア以外の国と結んだ最初の平等条約であった。当時のアメリカの新聞には、日本の主権を認めたメキシコの態度を賞賛する記事が掲載されたという。のちに不平等条約の改正に成功する背景には、この日墨関係が好影響を与えていると言われる。

さらに2004年3月12日、日本とメキシコは自由貿易協定FTA締結で合意した。日本のFTA締結はシンガポールに続いて、2カ国目だったが、農業分野も含む本格的な初の本格的FTAと言ってよい。家康が協定書で希望した日墨の友好と自由貿易は、280年後の日墨修好通商条約で実現し400年後の現代においてさらに発展した。わが国が国際社会に門戸を開くとき、メキシコは常にその良き相手だったのである。不思議な縁(えにし)と言うべきか。

文責:伊勢雅臣

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
<<登録はこちら>>

print
いま読まれてます

  • この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け