家康の「歓迎」に驚いた異国人。日本とメキシコの知られざる絆

 

江戸から駿河へ

その後、ロドリゴはトノの居城まで連れて行かれ、そこで家康からの朱印状(将軍の公文書)を受け取った。その内容は、海岸にて打ち上げられた品々は、すべてロドリゴのものとして良い、家康の居城駿府までの行程の安全と糧食を保証する、というものだった。

ロドリゴは家康の寛大さに驚いた。漂着で失ったものは、すべてその地域の支配者のものになる、というのが、当時の世界の暗黙の了解事項だったので、積み荷はすべて諦めていたからである。

ロドリゴはまず家康の息子・秀忠のいる江戸に向かった。日本見聞録では、江戸の様子をこう記録している。

町の通りは広く、長く通じ、またまっすぐに延びている。これはスペインの市街よりも発達しているといってよい。家は木造で2階建てのものもある。外観はスペインの石造りのほうが優美だが、内部の美は江戸の家屋のほうが遥かに勝っている。街路も美しく清掃され、誰も踏み入れたことがないのでは、と思うほどに清潔である。

ロドリゴは江戸城で秀忠に接見した。秀忠は常に微笑を絶やさず温かい応対をした。「不幸な体験を経て異国にいるあなたが、なにも不自由を感じないよう手を尽くす」とも言った。ロドリゴがスルンガ(駿河)の家康の居城に行きたいと述べると、4日後には往路万端不自由のないように整えられる、と答えた。

駿河までの5日間の行程で、ロドリゴはどこでも大歓迎を受けた。駿河は人口12万人の大都会で、町中に入ると、物見高い群衆が押し寄せて、通行が困難なほどだった。

「余もこのような臣下を持ちたいものだ」

駿河の城でロドリゴを接見した家康は、直立して深くお辞儀するロドリゴに対して満面に笑みを浮かべ、着席するよう求めた。「武士は海上の不幸で、気を挫かれてはならない」と慰め、何でも欲しいものがあれば言ってみよ、と聞いた。ロドリゴは3つございます、と答えて、

ひとつは、いま日本にいる宣教師の布教活動を自由にしていただきたい。2つ目は平戸港にオランダ人が入港しようとしているが、彼らはわがフェリペ王の敵で、海賊なので退去をもとめていただけませんか。3つ目にルソンから日本に入るスペイン船を保護してくださいませんか。

厚かましい要求だったが、家康は逆にいたく感服した。身ひとつで異国に打ち上げられた自分のことは一切棚上げにして祖国の事だけを思っていたからである。「余もこのような臣下を持ちたいものだ」と、側近に嘆声をもらしたという。

家康は、宣教師の布教は許し、マニラからの船は優遇すると答えた。しかし、オランダ船の締め出しについては、スペインとオランダの間のことであり、余のあずかり知るところではないと拒絶した。堂々たる外交姿勢である。

さらに家康は、わが国には三浦按針(オランダ船リーフデ号の航海士だったイギリス人で、同船が豊後に漂着した後、家康の外交顧問となった)に造らせたガレオン船があるので、それを使って帰国するがよい、と申し出た。

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