家康の「歓迎」に驚いた異国人。日本とメキシコの知られざる絆

 

日本からはるか離れた国、メキシコ。しかし両国の深い絆は、江戸幕府で徳川家康が権勢を振るっていた400年前から、細く長く紡がれていました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されているのは、航海中に房総半島の御宿に流れ着き、思わぬ歓待を受けるなど日本の素晴らしさに触れ、家康から譲り受けた船でメキシコに帰国したドン・ロドリゴという人物のエピソードです。

遠くて近い国、メキシコとの友好は400年前の海難事故から始まった

30人乗りほどの小さな飛行機からタラップを降りて、暗い滑走路に立つ。見上げると、満天の星空である。ここはメキシコ中部の都市アグアスカリエンテス。高地で空気も澄んでいるのだろう、地平線からすぐ上にも星が瞬き、遠くの地上の灯と見分けがつかないほどである。

日本から遥か遠くまで来たものだと思う。確かにメキシコは遠い国である。アメリカほど話題になることもない。

しかし日本とメキシコとは400年にもわたる深い縁で結ばれていた。その象徴が千葉県は房総半島の九十九里浜の中ほどにある御宿(おんじゅく)にある。

御宿の砂浜は小さな岬に囲まれて弓のような形で伸びている。この地の出身の詩人加藤まさをが書いた「月の砂漠」という詩のままに、王子様と王女様が金と銀の鞍を載せたラクダで月下の砂漠を行く姿が彫像にされて浜の真ん中に置かれている。

北側の岬に7メートルはあろうかという大きな石碑が建っている。「日墨西友好記念碑」という銘が刻んである。岬の先端に立つとほとんど視界の4分の3が茫漠たる太平洋の光景である。岬の先端は崖となっており、その下は磯である。

建立は昭和3(1928)年というから、もう70年以上前のことだ。石碑が建立された時にメキシコ公使が述べた祝辞は、その由来を簡潔に示している。

この記念碑に刻まれました日付は1609(慶長14)年9月30日で、フィリピンから当時ノヴィスパニア(新スペイン)と呼ばれていたメキシコに向かってスペインの船サン・フランシスコ号がこの海岸に漂着した日を示すものであります。この不幸な事件は航海者としてのスペイン人の勇気を証明し、日本の土地では驚異の出来事となりました。当時の文明国においてさえ、「漂流者に対する権利」という野蛮なものがあり、かつカトリック宣教師の非常な横暴の結果として、ヨーロッパに対する日本人の反感と嫌悪の情が深く、その数年前に土佐の海岸に漂着して、秀吉の命により積み荷を没収せられ、乗組員の一部が死刑に処せられた前例があるにもかかわらず、サン・フランシスコ号の漂着者は、日本官民によって救助厚遇を受け、大多数はフィリピンに送還せられ、前フィリピン総督ドン・ロドリゴは家康に謁見を許され、家康は彼に新しい船を提供してノヴィスパニアへの航海を続けせしめたのです。

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