【京都】複雑な女心。家康に味方した秀吉の妻「ねね」縁の地へ

 

ねねは秀吉の死とともに出家して高台院となりました。豊臣家の安寧と末永い繁栄を願い大坂城にいる淀君と秀頼の幸せを祈って静かに余生を過ごしていたことでしょう。しかし、実は淀殿と秀頼には怒り心頭で天満宮に祀られた怒りに満ちた道真公に手を合わせていたのかもしれません。

考えてみたら、関ヶ原の戦いは秀吉に忠誠を誓った武将が多くいたのは西軍です。勝ったのは徳川家康がいた東軍です。ねねは徳川家康の味方をしていたのです。ねねは豊臣側の武将たちに人望が厚く母親のような存在だったにも関わらず徳川家康に味方したのです。そのため石田三成率いる西軍は関ヶ原の戦いで負けてしまいます。

そればかりではありません。大坂城が炎上し秀吉の息子・秀頼と淀君が亡くなり豊臣家が滅亡した大坂夏の陣の時もねねは家康の味方をしています。大坂城を攻める前に家康は高台寺に立ち寄ったと言われています。ねねはその時家康に戦いの世が終わり平和が訪れるためにはやむを得ないと家康の大坂城攻めに理解を示したと言います。

何よりもねねは秀吉亡きあと、家康によって保護され高台寺の地を与えられています。秀吉に忠誠を誓ってきた武将を差し置いてまでも家康に味方をしたのはそのような思いからだったのではないでしょか? 秀吉亡き後ねねの心のどこかには豊臣家滅亡の願いがあったのではないでしょうか? 自分に背を向け側室である淀君との間に生まれた秀頼がいなくなればと。

先日紅葉シーズンで沢山の人達で賑わう高台寺を訪れた時に近くにある高台寺天満宮を見てねねの本音を思い描いていました。春は桜、秋はもみじの名所、高台にあり京都市内が一望できる場所にある高台寺。当時は遠く大坂城まで見渡せたと伝わっています。ねねの気持ちに想いを馳せて高台寺から見下ろす景色はまた違った京都が見渡せるのではないでしょうか。

高台寺とねねが晩年過ごした高台寺の向かい側にある圓徳院についてなどはこちらのブログ記事をご覧ください。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

 

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