倒産寸前の会社を救った「ガリガリ君」生みの親が明かす誕生秘話

2017.01.25
by まぐまぐ編集部
 

私が大学を卒業して働き始めたのは、1970年。世の中は高度成長期を迎えていました。新卒で入ったのが、赤城乳業でした。

赤城乳業は、埼玉県深谷市に本社があります。冷菓(=アイス)の製造を開始したのは、1949年。当時の井上栄一社長(故人)は、「味覚の天才」といわれ、1964年に、『赤城しぐれ』というかき氷のアイスを製造販売し、これが大ヒットしました。

その6年後に私が入社することになるのですが、当時の赤城乳業は、『赤城しぐれ』を商品の柱とし、年間の売上が20数億円規模の会社でした。ヒット商品はあるものの、いわゆる中小企業です。私は、大企業に入って、端っこで頑張るより、小さな会社に入ってトップを目指しながら、会社を大きくすることに貢献したいと考えていました。

赤城乳業に入った私は、微力ながら一生懸命に働いて、ヒット商品を生み出し、「赤城乳業を年間売上500億円規模の会社にする」という夢を持ちました。

ですが、現実は厳しく、多くの苦労が待っていました。

入社1年目に配属されたのは、商品開発部。以来、長い間、アイスの新商品の開発を手がけることになります。

コーヒーを固めた『ブラジル』というアイスに、チョコアイスの『BLACKEY』(『BLACK』の前身)、みかんを固めた『みかんチョ』(『ガツン、とみかん』の前身)……。

アイデアをどんどんアイスにしました。

でも、なかなか大ヒット商品を開発することはできませんでした。むしろ、私が作ったアイスの9割以上は、ほとんど売れない失敗作

上司には、怒られっぱなし。試作したアイスがあまりにもおいしくなかったため、当時の井上栄一社長が窓の外に投げ捨ててしまったこともありました。何度も、何度も、落ち込みました。

でも、会社を辞めようと思ったことはありません。気持ちを立て直して、商品を改善すると、上司から褒められたり、それがごくまれにスマッシュヒットにつながることもあったからです。

新商品の開発は、苦しい反面、楽しさもたくさんある。そう思えるようになったのです。

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