そんな中、オイルショックが起こり、会社が大ピンチになりました。
物価が上がって、材料費が高騰。作っても、作っても、売れれば赤字になるばかり。やむなくアイスの価格を値上げすると、今度は、まったく売れなくなってしまったのです。
工場は開店休業状態。毎朝清掃するだけで、機械はほとんど動いていませんでした。
「赤城乳業はつぶれる。ヤバイ」
私は本気で思いました。1979年のことです。
商品開発部のリーダーになっていた私は、このピンチを切り抜けるための新商品作りを命じられました。「『赤城しぐれ』に匹敵するような、会社の柱となる商品を開発しろ」と言われたのです。
そこで考えたのが、片手で食べられるかき氷のアイス『ガリガリ君』でした。
当時、アイス業界では、商品のコンセプトを考えてアイスを作ることは珍しいことでしたが、
• おいしい
• でかい
• 安い
• 当たり付
をコンセプトに『ガリガリ君』開発に取り掛かりました。できあがるまでに2年かかりました。
画期的なアイスでしたが、最初は苦戦しました。販売する場所が少なかったのです。
『ガリガリ君』が生まれた当時、お菓子やアイスは、街角の駄菓子屋などの小売店で買うのが一般的でした。お店には、アイスを置く冷凍のアイスストッカーが設置されていましたが、「雪印」「明治」「森永」「ロッテ」といった大手のメーカーが名を連ねており、ほぼ独占状態。
赤城乳業が新たにアイスストッカーを設置する場所はなく、また、その力もありませんでした。しかたなく、他社のアイスストッカーの隅に『ガリガリ君』を置かせてもらっていたのです。置き場所がないわけですから、作っても売れないのは当たり前です。
「この状況を打開しないと、ヤバイ」
私は、当時の専務・井上秀樹(現会長。経営の天才で、先見性に優れたすばらしい人です)の指導のもと、徐々に増え始めていたコンビニエンスストア(以下、コンビニ)に販路を見い出だすことにしました。これが、大成功。『ガリガリ君』の売上本数は10年で3倍、1000万本も売れる商品になりました。
子どもたちのために、値段は上げたくなかったので、価格を抑えても儲けが出るように、工場にアイスの新しい製造設備を入れて、量産体制も整えました。商品は〝時間の缶詰〞だと思います。1時間にどれだけ多く作れるかの勝負でした。
その後も、少しずつパッケージのデザインを変えるなど工夫を重ねてきた結果、2016年現在、『ガリガリ君』は、年間で4億本売れています。