大量閉鎖のイトーヨーカドー、懐かしの鳩マーク復活で再起できるか

 

伊藤雅俊氏はコストや生産性に厳しかったといいます。セブンイレブンを手がけたきっかけは、ヨーカ堂の生産性の低さにありました。生産性に直結する商品の回転率に着目し、高い回転率の商品だけを集めたコンビニエンスストアに注目するようになりました。

セブンイレブンを手がけるきっかけは、デニーズの誘致で鈴木敏文氏(現セブン&アイHD名誉顧問)が渡米したことです。デニーズに業務提携を申し込むために渡米した鈴木氏はいたるところで「セブンイレブン」を目にしました。米国のセブンイレブンは日本でも繁盛すると考えました。鈴木氏は伊藤雅俊氏を説得し、1973年に米国サウスランド社とライセンス契約を締結、翌年に日本1号店となる豊洲店を出店するに至りました。

1981年2月期決算でヨーカ堂は経常利益で小売業日本一を達成しました。しかし翌年、創業以来はじめての減益決算となりました。大規模店舗に対する規制の強化が影響しました。その時に伊藤雅俊氏は恐怖を感じたといいます。供給が需要を上回り、物が売れなくなる時代に突入することを予感したのです。

そこでヨーカ堂は規模の拡大から個店の収益性を高める方向に舵を切りました。1982年から全社の業務をゼロベースで見直す「業務改革」を鈴木敏文常務(当時)が主導する形で推し進めていきました。ヨーカ堂の本部の入り口に「荒天に準備せよ」というスローガンを掲げ、従業員を鼓舞しました。

業務改革」では様々な業務上の改革を行いました。1985年にPOSシステムを全店に導入し、死に筋商品を排除して売れ筋商品を拡大するなど、あらゆる改善活動を行なっていきました。結果として生産性は高まり利益が拡大しました。こうした改善活動は今日まで続いています。

ヨーカ堂の生産性は高まりました。しかし、売上高は低迷しています。直近10年でいえば、2007年2月期の売上高は1兆5,115億円ありましたが、2016年2月期には1兆2,895億円にまで減少しています。売上高の低下に歯止めがかかっていない状況です。

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