なぜ中国資本が進出したアジアで、「反中感情」が高まっているのか

 

しかし、こうした手口は今に始まったことではありません。習近平政権による個人的な手法では決してないのです。私はよく、こうした中国のやり方を「中国の伝統文化」だと言っていますが、まさに中国の歴史のなかではこうしたことが繰り返されてきました。今は、それが世界に輸出されたことで世界の人々が知ることになっているだけなのです。

台湾を統治していた中国国民党も同様でした。そして、それ以前に台湾を統治していた日本のやり方は、中国流とは全く対照的なものでした。日本と中国がどれだけ違うのか、かつての台湾を例に詳しくご紹介しましょう。

台湾が日本に永久割譲された2年後、日本帝国議会では江藤新作代議士(江藤新平の次男)によって、100万人台湾移民と原住民との同化案が提出されました。児玉源太郎はこの提案を、反乱平定が未決であり理蕃問題は山積しているとの理由で拒んでいます。とはいうものの、すでに民間移民は、東台湾開発に意欲を燃やした事業家たちにより行われていました。

佐久間第五代総督の代になると、東台湾開拓の一環として官営移民が行われました。官営移民で有名なのは吉野村の開拓です。農業を専業とし、台湾に骨を埋める決意がある品行方正な移住希望の家族を、九州、四国、中国、さらには群馬や福島などから、妻子同伴を条件に募集したのです。

漢人の台湾移住がオランダ時代に平埔族から土地を略奪したことから始まり、鄭成功時代には軍隊による略奪や原住民虐殺による村つぶしがエスカレート、その後の清時代に山禁海禁を敷いたにもかかわらず、漢人移民は相変わらず原住民の土地に侵入して彼らとの対立が続いていたのに比べて、日本からの新移民たちは、漢族の土地略奪や騙取とは違った方法で台湾に入り込んでいきました。

日本も抵抗を続けていた山岳民族は武力で征服したものの、その一方では「理蕃」事業として「蕃人」を近代国民国家の一員として育てようとしたのです。しかも日本人は、近代資本主義の原理にのっとり、開拓する土地は買収して手に入れました。日本領台時代には原住民も新住民も台湾総督府の手厚い保護のもとにあったのです。ここが、近代国民国家の法治社会と前近代的な社会の相違点です。

また台湾人は、自分の生まれ育った土地を大事にし樹木や森林を愛する精神も日本人から学びました。台湾の自然史は250万年、そして4回の氷河期によって形成されました。3,000メートル以上の高山が、200以上もあるため、地形が複雑多様で、熱、温、寒の三帯にわたる植物帯を持っています。全島の大きさは九州程度の小さな島ですが、植物は4,000種も原生しています。このような多様な地形と自然から、多様な文化や言語を持つ民族がつくられていきました。

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