なぜ中国資本が進出したアジアで、「反中感情」が高まっているのか

 

日本領台以前は、新田開拓や森林伐採のほか、すべての燃料は木炭にたよっていたため、材木の需要が高かったのです。そして、伐採しやすい平地から森林は消え、生態は変化していきました。平地の森林がなくなってしまっても、現住民地区の森林へは手を出せなかったため、台湾の農村や市街の建物には、竹材や土で固められた住宅が増えていきました。

木材供給は、中国大陸から「福州杉」の輸入によって補っていましたが、それでも足りず、レンガ造りの家も木材欠乏のためにあまり建築できませんでした。

台湾がそんな状態に陥っていた100年前、自然を愛する日本人がこの島に入ってきました。日本人は海岸から高山まで徹底的に探測し、ヒマラヤ山系にしか生えない高山植物を数多く発見しました。たとえば、「児玉総督」と命名された名花は「ネパール籟簫」「にいたかうすゆきそう」「台湾杉」などです。日本人は台湾の動植物、天然資源を科学的に記録し、発表、応用、教育して、台湾人に自然と文化の象徴を愛する心を教えてくれました。

もちろん、日本時代においても台湾森林の伐採があったことは確かです。たとえば、阿里山、太平山、八仙山の森林伐採は台湾総督府の財政に大きく貢献しました。しかし、それは漢人移民のような濫伐や盗伐ではありませんでした。専門家による林野調査のうえ、所有権を確立し、保安材を決めて計画的な伐採と造林が行われたのです。それだけではありません。小学生に至るまで、森林環境保護の教育を行い、森林保護の優良入選論文集まで出版するという徹底ぶりでした。台湾人は、この森林保護思想を明治時代から日本によって植え付けられました

台湾総督府は、明治39年より、保安林確保のために造林事業を奨励し、毎年100万本余りの苗木を無償配布した上に、保証金を交付して造林に努めました。保護林の調査が進められ、流砂防止林、水源涵養林、風致林、防風林、潮害防備林、墜石防止林、水害防備林などの造林を続けたのです。その造林目標面積は13万余甲でした。

日本領台時代は、綿密な計画の上で台湾国土保護、改造総合計画の一環として、清国時代に濫伐荒廃した台湾の山河の保護と、治山治水が推進されました。台湾総督府の造林事業は、保安林の造林だけでなく、すでに明治33年には樟樹造林が始められていました。さらに、熱帯樹造林、特殊樹造林、林産物払い下げ跡地の造林、阿里山および同鉄道沿線の整備、太平山と八仙山の伐採跡地の造林などを、国土保全事業として遂行したのです。こうして林野事業は日本の努力によって定着していき、原始の大自然が保護されたのでした。

その後台湾を統治した中国国民党は、日本がここまでして保護してきた自然をいとも簡単に破壊し尽くしました。現在、ラオスで中国がやっていることと同じです。現地の原住民を追いやり、有害な農薬で土壌汚染を促進させ、自然を破壊して得た利益は中国人のみが享受する。今も昔もやり方は全く変わりません。こんなことを繰り返していれば、世界各地でラオスのような反中運動が連鎖的に起こり、中国は自滅の道を歩むこととなるでしょう。

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