稲作に不向きな日本を、世界の「コメどころ」に変えた先人たち

 

急峻な地形を水田に変えた「灌漑田」

不向きな条件を克服した日本人の知恵と努力の様を具体的に見てみよう。

まず必要なのは、急峻な地形を水田に変える事である。棚田を想像すれば、その大変さがよく想像できる。傾斜地を、ある部分は削り、ある部分は土を盛って、水平にしなければならない。一定の高さごとに区切って、何段もそれを作る。

そして、近くの川から水路を作り田に水が流れ込むようにする。田は何段もあるから、上の田から下の田へと水が流れるようにする。当然、一枚の田は水平に作らなければならないし、水量をコントロールするためには、水路の大きさや傾斜を適正に設計しなければならない。こうして人工的に水を引く田を「灌漑田」という。

灌漑田を作るためには、精密な土地測量技術、土手や畦を作る土木技術などが必要である。また人々が力を合わせて田を造成していくために、共同体の運営技術も発展させなければならない。

逆に天水田が行われているメコン河のような大きな河川の流域では、ひとたび豪雨があると大規模な洪水が起こって、あたりを呑み込んでしまう。灌漑などの人間の努力は消し飛んでしまうわけで、こういう面からも水のコントロールなどはせずに、天然自然のままに稲の自生を待つ、という形にならざるを得ない。

こうして考えると天然の沼地やデルタ地帯に種をばらまいて、稲が育つまで待つという「天水田」と、人間が地形を改良してまで水をコントロールして作る「灌漑田」とは、本質的に異なることが分かる。

高天原(たかまがはら)の支配者となった天照大神(アマテラスオオミカミ)がまず手がけた重要な仕事が、神々を指揮してコメを作ることであった。高天原の「狭田(さなだ)」や「長田(ながた)」に稲を植えたという物語が神話に語られている。

「狭田」や「長田」とは、いかにも山間の狭い土地を段々に水平にならして作った細長い棚田を思わせる。日本によくある真田(さなだ)、長田、さらには山田、谷田などという名字は、まさに稲作のための日本人の水田造成の懸命な努力を象徴しているようだ。

一生懸命」はもともとは「一所懸命」であり、一つの領地を命を懸けて守るという鎌倉武士の時代に生まれた言葉のようだが、その土地で何世代にも渡って水田造成をして来た努力を偲べば、先人たちの「一所懸命」の思いも伝わってくる。

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