赤字の酪農家を救うため立ち上がった業界の異端児「よつ葉」の挑戦

 

酪農家とともに生きる~絶品を生み出す乳業革命

オリジナル商品を生み出す、北広島市のよつ葉乳業中央研究所。社長になって2年の有田真(62)は、ありそうでなかったキャップつきの牛乳パックというヒットを生んだ。

「今はいろいろな飲み物があるので、冷蔵庫のポケットがいっぱいになる。これだと横にしても置けますし、キャップをしっかり締めれば逆にしても漏れません」(有田)

小さな工夫だが、「使いやすい」とこの容器に変えてから売上は1割伸びたと言う。

「生産者のために、生乳から付加価値のある商品を作るのが、我々の第一の使命ですから」(有田)

よつ葉乳業はもともと酪農家のために作られた会社。だから生産者との結びつきは強い

酪農部主任技師の渡邉誠治は、毎日、生産者の元を回る。この日は石黒牧場・石黒和彦さんの元へ。よつ葉が特別な生乳を作ってもらっている15人の指定生産者の一人だ。

向かう先には放牧された牛たちが。石黒さんの生乳は全て放牧した牛から搾っているのだ。「パリッ、パリッ」という牛が草をはむ音が聞こえる。

「放たれた自然な感じがよくて、牛が草をはむ音が聞こえてくると、放牧でよかったと思います」(石黒さん)

外でお腹いっぱい草を食べた牛は、お乳が張り、自分から牛舎へ向かう。搾乳の時間だ。

ここで酪農部・渡邉の仕事が。綿棒を取り出すと、牛の乳首を撫でた。細菌がついていないかをチェック。これも酪農家のフォローの一環だ。

「元気よく放牧場で遊ぶので、やはり牛も汚れるんです」(渡邉)

乳首をお湯で洗う洗浄機もある。こうした機械を現場に導入し、品質を上げるべく指導している。さらに「つい最近は『ペーパータオルを』と言われました。機械で洗った後に水滴が残る。水滴に雑菌が入っているのではないかと指摘され、ペーパータオルを使うようになりました。細かいですよ、ハッキリ言って(笑)」(石黒さん)

これだけ厳しく管理して作るのが、放牧生産者限定のノンホモ牛乳」だ。普通の牛乳と比べると、色が少し緑っぽい外で食べている青草が生乳に影響しているのだと言う。

よつ葉乳業はこの生乳を、通常より高く買い取っている。まさに「生産者あっての会社」を実践しているのだ。

生産者と共に築いた品質で、売り上げは1000億円を突破。過去最高益も叩き出した。

よつ葉乳業 カンブリア宮殿

「頼りになるパートナーで共同体のような感じ。もっといい牛乳を、安全安心なものを作っていきたいなと思います」(石黒さん)

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酪農の理想郷をつくりたい~感動のよつ葉誕生秘話

会員登録すると、受注生産で作りたてを送ってくれる宅配サービスもあるよつ葉乳業。今では全国にファンを持つが、その歩んできた道は決して平坦なものではなかった。よつ葉乳業の前身、「北海道協同乳業」の創業は1967年。十勝の八つの農協が酪農家のために作った会社だった。そこには北海道の酪農の灯を守るために戦った壮絶な歴史があった。

1960年代、北海道の酪農は危機的状況にあった。当時、酪農家は大手の乳業メーカーと直接、契約を結んでいた。立場は弱く、生乳をメーカーの都合のいい価格で買い叩かれていた。その結果、北海道の生乳価格は日本で一番安くなり、酪農家の8割が赤字という事態に陥った。

当時から酪農を続けている鈴木洋一さんは「買い取り価格も低くて、負債の支払いも多く、どうやっても利益が出ない。酪農家はみんなそうだった。やってられない状況で、生活ができなかった」と言う。

このままでは北海道の酪農は滅びると、一人の男が立ち上がる。それがよつ葉乳業の創業者太田寛一。士幌農協の若き組合長でもあり、「北の闘魂」と呼ばれた熱血漢だ。

太田は突破口となるヒントを求め、酪農の先進国であるヨーロッパを視察した。そこで見たのは、酪農家が工場を建て、自分でチーズを作る姿だった。生産者自ら加工販売する6次産業化が進み、市場の8割を占めていたのだ。

太田は自分たちで加工工場を作る農村ユートピア計画」を打ち出し、行動に出る。

大手乳業メーカーに気づかれないように極秘で八つの農協のトップを招集し、「乳業メーカーが栄えて酪農が衰退するのはおかしい。生産者が加工販売しなければ未来はない」と訴え、農協の出資で酪農家のための会社を設立する話をまとめた。その際には乳製品工場を実現させるという誓約書まで作成、八つの農協のトップが判を押した。何があってもやり抜くことを誓った、いわば血判書だ。

酪農振興会の会長だった今村博人さんは「既存のメーカーからの反発がすごく強かった。なんとか潰そうと酪農振興会の役員を抱きこんで、作らせないように動いたんです」と、振り返る。

太田の計画が表に出ると大手乳業メーカーは猛反発。なんとか阻止しようと動きだした。大手乳業メーカーにとってよつ葉乳業は、できてはいけない会社だったのだ。

「今までは自分たちの都合で乳価を決められていたのが、違う発想の会社ができると、自分たちの権益を侵されるということです」(有田)

乳製品工場の建設を進めようとすると、様々な横やりが入り、あからさまな妨害工作も始まる。間もなく着工という段階に辿りついた時には、契約した建設会社が工場の建設を断ってきたことも。大手乳業メーカーと取引していた建設会社だった。

それでも太田は諦めない。大手乳業メーカーとはしがらみのない建設会社を探し出し、工事を依頼。海外視察から1年あまりの1967年、酪農家のための工場を完成させた。

よつ葉乳業は、酪農家のためにも「売れる牛乳にしなければ」と、大手との差別化を図り、当時はまだなかった搾りたてに近い味で勝負した。

「生乳の味を活かした加工をする。そのためには脂肪分もそのままで手を加えない。ミルクを生産する側としては当然の思いですが、いいものを美味しく飲んで下さい、と」(有田)

当時、牛乳は宅配が主流だったが、よつ葉乳業は店頭販売も開始。しかも瓶が当たり前の時代に、返却の必要のない紙パックを採用し大ヒットした。

酪農家の利益を確保するよつ葉乳業が登場して10年乳価は2倍以上に跳ね上がった。そして北海道の酪農家も生活していけるようになったのだ。

50年前は酪農をやめようかとさえ思っていた鈴木さん。当時5頭しかいなかった牛は現在350頭に増え、毎日、生乳をよつ葉乳業に卸している。

よつ葉乳業 カンブリア宮殿

「よつ葉乳業ができてなかったら大変だったと思います。酪農を続けてなかったかもしれない。太田さんは現状を見ないで亡くなったけど、見たら満足すると思うね」(鈴木さん)

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