ほんまでっか?池田清彦教授が「安楽死」に断固反対する理由

 

パターナリズムは相手が自己決定ができる人の場合はおせっかい主義ということになり、悪しき行動の典型であるが、面倒を見てやらなければ生きていけない人に対しては、むしろ必要な行動であろう。母親が自分の乳児の面倒を見るのは、生物学的な必然が半分、残りの半分は可愛くてやっているに違いなく、社会的なパターナリズムとは少し異なるが、中には育児を放棄してしまう母親もいるわけで、この場合は代わりに誰かが面倒を見なければ、乳児は死んでしまう。誰かに面倒を見てもらう受動的な権利はないというわけにはいかないのである。

野生の哺乳類や鳥類の場合、親が死んだり、親に見放されたりした、生まれて間もない子はまず間違いなく死んでしまうし、そのことの倫理的な是非を問う必要はないのだけれど、人の場合は、現代社会にほぼあまねく受け入れられている社会規範として、すべての人は等しく生きる権利があるという公準を守らなければならないので、放置しておけば死んでしまう乳児の面倒をだれがどう見るか、あるいはそのためのリソースをどのように負担するかは、なかなか厄介な問題となる。

すべての人は、生まれる時代も親も条件も選べない。気がつけば、今ここで生きている、という事実があるだけだ。だから自分の存在は、能動的な権利行使の彼岸にある。自分の命や体は自分の努力によって得たものではないので自分の所有物ではない。私が臓器移植や自己決定による安楽死に反対するこれが一つの根拠である。

自立した個人はリバータリアン的に生きるのが理想だが、病気になって体が不自由になったり認知症になったりすると他人に介護をしてもらわないと生きていけなくなるので、受動的な権利はないと言ってこれらの人たちを見捨てるわけにいかない。乳幼児と違って、成人は法律に違反しない限り、自由意志が尊重されるべきだという建前の現代社会では、治療法や介護の仕方などについて、一応本人の意思を確かめるフリくらいはするだろう。しかし、実質的には選択の余地はほとんどなくいやいや同意することも多いのではないかと思われる。

自分で様々な関連情報を調べて、最善と思われる策を考えられる人ならばともかく、心身共に弱っている人に、自己決定をしろと言っても実際は不可能であろう。形式的には本人の意思を尊重したことになっていても、本人が心から納得していない場合は、本人も不幸であるし、医療者や介護者も手間がかかって厄介なことになる。このメルマガでも以前紹介したことがあるが、1978年の沖縄県佐敷村(現、南城市)での65歳以上の認知症老人を対象とした調査では、幻覚妄想夜間せん妄などの周辺症状がみられる人はほとんどいなかったという。認知症老人と介護者の間に言語以前のシンパシーが働いたためだと思われる。

同じ時期、東京で行われた調査では、認知症老人の半数近くに周辺症状がみられたという。自分のやってもらいたいことを上手く伝えられない、あるいは看護者が一方的に介護のやり方を決めてしまうことに対するいら立ちが、周辺症状という形で表出されるのであろう。これは能動と受動が対立したまま、コミュニケーションが成立していない状況ということになる。逆に、能動と受動がうまくかみ合えば認知症老人も心安らかになれて周辺症状も減るのであろう。國分功一郎の物言いを借りれば、能動態でも受動態でもない中動態があり、タイトな人間関係がうまく機能するためには、中動態が不可欠ということになる(國分功一郎『中道態の世界』医学書院 2017)。

認知症老人と介護者あるいは乳児と母親の間に成立する中動態は、言葉を介して行われることもあるだろうが、究極的には共感力の問題であり、マニュアルや法律とは無縁の世界である。「中動態が大事ですよ」と法律に書いても中動態が尊重されるわけではない。それで、冒頭の安楽死の話である。私が自己決定で安楽死を認めてよいといったいわゆる「安楽死法」に反対するのは、自分の命は自分のものではないという理由もさることながら、自然現象を規制するのは法律になじまない、さらにはそもそも死にそうになっている人に自己決定の能力があるのかという疑問があるからだ。

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