元引きこもりの哲学者・小川仁志が断言。哲学は人生に奇跡を呼ぶ

2018.04.02
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今まで100冊以上の著書を出版し、NHKの番組で哲学を知らない人たちに向けてわかりやすく名著を紹介したことでも話題になった哲学者の小川仁志さん。引きこもり生活中に哲学と出会って人生が一転、市役所職員、大学院生、子育てパパという「三足のワラジ」という大変ながらも充実した生活を送っていましたが…。最終回となる今回は、高専の教員から「哲学の伝道師」になるまでの奇跡の歩みを余すところなくお伝えします。

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プロフィール:小川仁志(おがわ・ひとし)
1970年、京都府生まれ。哲学者・山口大学国際総合科学部准教授。京都大学法学部卒、名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。博士(人間文化)。米プリンストン大学客員研究員等を経て現職。大学で新しいグローバル教育を牽引する傍ら、商店街で「哲学カフェ」を主宰するなど、市民のための哲学を実践している。2018年4月からはEテレ「世界の哲学者に人生相談」(木曜23時〜)にレギュラー出演。専門は公共哲学。著書も多く、海外での翻訳出版も含めると100冊以上。近著に『哲学の最新キーワードを読む』(講談社現代新書)等多数。 ブログ「哲学者の小川さん

小川仁志の情熱人生―挫折、努力、ときどき哲学 第五回

そして哲学者に―この10年の軌跡と奇跡

いよいよ私の半生記の最終回です。前回は、徳山高専に哲学の教員として採用されたところまでをご紹介しました。当時私は36歳でした。社会を変えるために商社を辞めてから10年の年月が経っていました。そのとき私は、ようやくスタート地点に立ったのです。

前回も書きましたが、高専の教員というのは大学の教員と同じ扱いで、教員免許は必要ない代わりに、研究者としての活動が要求されます。にもかかわらず、学校には高校生の年齢の子たちもいるので、高校の先生でもあるのです。これには正直とまどいました。なんの経験もないのに担任の先生とか部活の顧問をやらなければならないのです。

1年生の担任になったときには、3年B組金八先生のビデオを見て、教師たるものどうあるべきか自分で勉強しました。ただ、教育はマニュアル通りにはいきません。なかなか思いが伝わらず、最初の頃は声を荒げてしまったこともあります。逆に彼らの純粋さや優しさに心打たれ、涙することも多々ありました。今となってはすべてが貴重な経験です。

そんな恵まれた環境の中で、まず私が始めたのは「哲学カフェ」という活動でした。これは学生や市民と共に哲学を気軽に楽しむという企画です。フランスでそういう活動をしている人がいることを本で知り、私も見よう見真似で始めてみたのです。もともと変わった経歴で来ていますから、教育と研究だけでは自分の良さが発揮できないと感じていたのです。

それに、市役所でまちづくりをしていた経験から、市民が世代や立場の垣根を越えてじっくりと議論できる場が必要であることを実感していました。その結果、哲学でまちづくりをするための方法として、「哲学カフェ」を開くというアイデアに行き着いたのです。

必然的に、前回紹介したシャッター街の商店街を開催場所に選ぶことになりました。ちょうど学校が商店街の空き店舗を借りていたので、そこを使ったのです。最初は学内で試行していましたが、そのうち2週間に1回、外で開催するようになりました。するとみるみる人が集まり地元のメディアでも取り上げられるようになったのです。

それは私にとって公共哲学の実践でもありました。公共哲学の祖の一人、アメリカの女性現代思想家ハンナ・アーレントは、労働や仕事のほかに活動(アクション)が必要だと訴えました。つまり、地域活動政治活動です。そうした活動があってはじめて、人は公共性について考えるようになります。それが社会をよくしていくのです。「哲学カフェ」は私自身にとっても、また市民にとってもアーレントのいう「活動」になったのです。

また、そこから様々なまちづくり活動にも発展していきました。たとえば、アートで商店街を埋め尽くす「アート驚く商店街」。これが評価されて「お元気商店街100選」にも選ばれました。あのシャッター街がですよ! さらには映画祭まで立ち上げました。周南絆映画祭です。初代実行委員長として、山口にゆかりのある監督や俳優さんを呼んで、盛大に開催しました。この映画祭も北野武さんが選ぶ手作り映画祭ベスト10に選ばれました。

こうしたまちづくり活動のほかに、個人としても哲学の普及活動を始めました。それが今につながる哲学の入門書の出版と、メディアでの啓蒙活動です。そのきっかけとなったのは、最初の本の出版です。37歳のときでした。

私は結構この年齢にこだわっていました。というのも、大学院で勉強してきたヘーゲルが、まさに遅咲きで、37歳のときはじめて精神現象学』という周囲から認められる本を書いてデビューしていたからです。その後彼は哲学界の頂点に立ちます。

私もそれまでにと思い、頑張って原稿を書き上げました。それが処女作市役所の小川さん哲学者になる 転身力』です。内容が面白いということで、知り合いを通じて海竜社から出してもらえることになったのです。いろいろと自ら働きかけた結果とはいえ、自分を認めてもらえる方々と出会えてラッキーだったと思っています。

この本が世に出ると、メディアから注目を浴びることになりました。当時は派遣切りなどが社会問題化し、私のフリーターから這い上がった経験にも注目してもらえたのです。中でも2008年の大晦日に、あの「朝まで生テレビ!に出演したことで、知名度が一気に上がりました。大晦日はただでさえ視聴率が高いのに、年越し派遣村が話題になり、皆が関心を持っていたからです。

しかし、デビューは惨憺たるものでした。私は直前に大島渚さんの精神を引き継ぐとブログで宣言し、テレビで吠えまくりました。初めてのことで意気込んでいましたし、学生時代見ていた朝生のカオスな雰囲気をそのまま実践してしまったのです。

するとネットでもボコボコに叩かれましたグーグルでも小川仁志と入れると、「ウザイ」とつくようになりました。それ以来、一気に仕事も減ってしまったのです。そこで初心に返り、市民と真摯に対話することを重視し、悩める人のための哲学入門を書き始めたのです。

そうして1年たったころには、「哲学カフェ」の地道な活動がメディアで報じられたり、哲学の入門書が売れたりして、徐々に勘違い哲学者から落ち着いた哲学の伝道師へと生まれ変わっていくことができたのです。

ソクラテスは相手の口から答えが出るように質問をしたといいますが、そのためには相手を否定するのではなく、むしろ支える必要があります。「産婆術」とはよくいったもので、まるで出産を助けるように手を貸す。これが哲学的対話の核であることを真に理解するために、私には失敗の経験が必要だったのでしょう。

おかげさまで3年目くらいからは哲学の入門書も毎年コンスタントに10冊以上出せるようになり、テレビ等の仕事も増えてきました。ただ、私の中では、このまま自分の勉強してきたものを消費するだけの自分に不安を抱いていました。というのも、時代はグローバル社会を本格的に迎えつつあり、私自身ももう一皮むける必要性を感じていたからです。

そこで、1年間日本での活動を休止し、海外で研鑽を積むことにしました。順調に日本での仕事が増えていたので、せっかく築き上げてきたものを失う不安はありましたが、どうしてももうひと磨きしないといけないような気がしてならなかったのです。そうして私は海外研修を希望しました。もう40を過ぎていましたから、最後のチャンスという思いもありました。

行先は自分で探さねばなりません。政治哲学の分野で自分の関心のあることをやっている人を探したところ、プリンストン大学にいい先生が見つかりました。ハーバードと並ぶ名門大学ですが、当たって砕けろの精神でアプローチしたのです。そうしたところ、ちゃんとメールが返ってきて、会ってから決めたいと言ってくださったのです。こういうのはメールさえ返ってこないことがほとんどです。そこで喜び勇んでアメリカまで直談判に行きました。

その先生の本を日本で出版したいということや、自分が研究したい内容を必死に伝えました。すると私の熱意が通じたのか、受け入れを承諾してくださったのです。それがアメリカ政治学界の重鎮スティーブン・マシード教授でした。その後、マシード教授の本もちゃんと約束通り翻訳出版しました。もちろん今も時々会いに行っています。

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