異色の生協「生活クラブ」で、起業する組合員が続出している理由

 

原材料からパッケージまで~商品は自分たちで開発する

他の生協同様、エリアによっては宅配でも届けてくれる生活クラブだが、他と決定的に違うことがもうひとつある。商品を開発しているのは組合員自身なのだ。

「ジューシーパリ旨ポークウインナー」を手にした組合員の山口典子さんは「ネーミングもパッケージデザインも全部自分たちで決めました。自信作です」と言う。

商品開発のきっかけは既存の商品への不安だったという。

「加工肉は加工されて空気に触れるため、いろいろな添加物が入っています。保存料の一種だったり、発色剤だったり。中には、添加物が何も書いてないけれど、『この味はどうなんだろう?』という商品もあって、みんなで不思議に思って、メーカーに電話をかけても、『入っていません』とおっしゃる。それ以上は追及できなかったんです」(山口さん)

商品に不安があっても真実を知ることができないそれが自分たちで商品開発をする原点だった。

東京都東村山市の東村山センター。この日、生活クラブのメンバーが集まって行なっていたのは、独自開発したヨーグルトの改良会議だった。エリアごとに選ばれた組合員がチームを組み、市販品の調査から製造を依頼するメーカーとの価格交渉まで行うという。

組合員の小寺浩子さんは「やはり自分たちが食べるものは自分たちで選ぶ。どんなものを作っていきたいかというのを実現できるので、組合員の意見を集めてできた商品はすごく愛着が湧きます」と言う。

依頼するメーカーには何度も訪ねて、試食を繰り返し、その製造現場に問題がないかまで自分たちでチェックを行う。生活クラブは、安心でおいしい商品を消費者自身が参加して作り上げる今までにない集団だ。

生活クラブ設立のメンバーで、生活クラブ連合会顧問の河野栄次(71)は、生活クラブの商品を、あえて企業が作る「商品」と区別して「消費材」と呼んでいる。

「商品というのは売って利益を上げるということになる。そうすると原材料がどうかより、コスト的に儲かるほうがいい。僕らは商売をしているのではない組合員と共同で生活に必要な材を作るという意味を込めての消費材なんです」

そこにいるのは、自ら行動する自立した消費者だ。

「組合員は『私たちが生活クラブを作っている』と思っています。私が作った豚、私が作った鶏、私が作ったケチャップ、なんです」(河野)

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そんな生活クラブの組合員がひと際、誇らしげに思っている消費材が「丹精國鶏」。歯ごたえのあるジューシーな食感が自慢だが、この鶏は幻とも言える希少なものだという。

生活クラブから依頼されてその鶏を作っているのは山口市の秋川牧園。この鶏の最大の特徴は純国産の鶏という点にあるという。その名も「はりま」だ。

「ひいばあちゃん、ひいじいちゃんまでさかのぼっても、日本国内で完結しています」(秋川正社長)

日本は欧米からひな鳥を大量に輸入しており、日本で育つ鶏の98%はこの輸入した鶏から作られている。生活クラブが問題視するのは、輸入した鶏が海外でどのように育ったのかは調べようがないことだ。

そこで目を付けたのが、兵庫県たつの市の農場で開発された「はりま」だった。3世代以上にわたって国内で育てられている貴重なはりま」。生活クラブは秋川さんと交渉を重ね、生産効率は決して良くない「はりま」を育ててもらうことで合意した。

「1羽から取れる鶏肉の量が『はりま』は外国鶏と比べると少ないので、さらに高くなってしまう。『本当に大丈夫ですか』と申し上げました。最終的に生活クラブが『やる』『組合員も望んでいる』と決断したので、全力でより良い飼い方をしよう、と」(秋川社長)

それは消費者と生産者の新たなタッグだった。

 

欲しいものは自分たちで~牛乳工場まで建設した主婦たち

東京都練馬区の北東京生活クラブ・練馬センターで、生活クラブが最も力を入れるイベントが開かれていた。集まった女性たちが下ごしらえをしている。切っていたのはプリプリのホタテの貝柱。鮭を大胆に切った「ちゃんちゃん焼き」も。「雄武町の海産物のおいしさを少しでもお伝えしたい」と言う女性たちは、北海道・雄武漁協の「浜のお母さん」。生活クラブに長年、ホタテや鮭を卸してきた縁から開かれた組合員との交流会だ。

生活クラブは毎日のように生産者との交流会を開いており、その数、実に年間2000回を超える。生産者に来てもらうだけではなく、組合員も自ら産地に足を運ぶ

生産者の元へ誰よりも足を運んで来たのが河野だ。河野は長年、生産者と消費者をできる限り近づけたいと奔走してきた。

自分の食料はどうやってできているのか分かって食べたほうが面白いんです。ただ、今まで生産者はそんなことをやってこなかったから、僕らと出会うといつもぶつかる。必ず戸惑う。『なんでそこまで要求するのか』と言われるんです」(河野)

生活クラブの誕生は50年前、当時の家計を襲った牛乳価格の高騰がきっかけだった。これに対抗するため、1965年に世田谷区で始まった牛乳の共同購入が生活クラブの始まりだ。安く仕入れ、通常の牛乳より3円安く売ることで組合員を増やしていった。

設立メンバーは社会運動をしていた岩根邦雄・志津子夫妻とまだ19歳だった河野の3人。それは従来の社会運動への絶望からだった。

「岩根さんはいろいろな運動をやっていたが、地域に根ざしてなかった。地域で持続的に運動するといったら、やはり地域に住む人たち、専業主婦の人たちです」(河野)

その主婦たちが河野を驚かせる。それが組合員の主婦を集めて行なった牛乳の勉強会。当初はサークル活動のようなものだったが、回を重ねるうちに「もっと自然の味のままの牛乳は飲めないの?」「殺菌の温度によって味は変わるんですか?」と、女性たちは驚くほど熱心により良い牛乳作りとは何か追求し始めたのだ。

「僕らよりはるかに食べ物について考える人が出てきた。びっくりです」(河野)

そんな女性たちがとんでもない行動に打って出る。栃木県那須塩原市に1979年、酪農家と手を組んだ自前の牛乳工場を建設したのだ。そして、製造や物流など、メーカーの都合を優先させた牛乳と決別し、自分たちの考える、飲みたい牛乳を作り始めた

新生酪農の麻生一夫専務は「たまげたなんていうものではないです。あの情熱。組合員の方には頭が下がります」と振り返った。

生活クラブの組合員が次に取り組んだのが豚肉だった。それは噂を聞きつけ見学に訪れた山形県酒田市の畜産農家でのこと。「養豚場は臭くて汚いものだと思っていたのが、すごく管理されていたんです。そうしたら『あの豚肉が食べたい』となった」(河野)。それが、今や高級ブランド豚として知られる平田牧場だった。

当時は無名だったが、組合員はその素晴らしい豚作りに魅了される。そして価格が高かった平田牧場の豚を、組合員はあり得ないような買い方を考え、安く手に入れる。ロースやバラなど欲しい部位だけを買うのではなく、腕の肉やホルモンなども全て、一頭丸ごと買付けることにしたのだ。組合員たちの行動力は河野の予想をはるかに超えるものだった。

「『部位のバランスがある』と何度言っても『やりたい』と。『消化できますか』と話したら『できる』と。組合員が僕らを越えて『自分たちで決める』と宣言したようなものでした」(河野)

そんな女性たちの格闘が新たな常識を生み出していく。今や当たり前の成分無調整牛乳が生活クラブが最初なら、お米に何年にどこで採れいつ精米したかを表示し始めたのも生活クラブが最初だ。さらに卵には賞味期限だけでなく採卵日を掲示している。

女性たちが自らおいしさと安心を求め続け、そして社会を変えたのだ。

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