男尊女卑ヒエラルキーが崩壊すると、自分の信じている世界が否定されるように思うということもあるのでしょう。
この問題ですが、いわゆる左派の立場の人たちは「鬼の首を取ったように」自分たちの「正義」を振りかざして、この種の「反性教育」の立場を罵倒する「だけ」で終わることが多いようです。
ですが、その種の「議論」や「闘争」が空回りしているのも事実です。左右対立に収斂させて力比べで圧倒するのではなく、その病理自身にメスを入れる、つまり性教育を妨害している層の持つ「闇」を解き明かすことが必要ではないかと思うのです。
現在の日本における「保守」イデオロギーが、どうして「性教育を否定」したがるのか、そこにはアメリカの福音派における純潔主義、イスラム教の教理などとは違う「何か」があるように思います。日本の神道や農村文化などにはない「禁欲性」がどこからきているのか、実はよく分かっていないというのが現状ではないでしょうか。
少し大きくに構えてみると、明治以降における「秩序」とか「公共」という概念、更には社会の単位としての大家族主義といった「前近代」でもなければ「近代」でもない何か、いわば「半近代」という状態があって、それが全員を不幸にしている、その一つの現れなのかもしれません。
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