日本語と英語の文法からわかる、日本人が「感覚的」な議論になりがちな理由
筆者の場合、テレビなどで発信することが多く、待ったなしなので、必ずネットで知識の間違いや追加して知る必要のあることをなんとか頑張って仕入れる。その点でネットはとても便利だし、違った角度からの事実もわかるので便利だ。本などの時間のかかるものは一般的な知識として、少しずつ普段から読むようにしている。
次に「議論」だが、これには「友人か機会」がいる。友人といつも酒と世間話だけをしていると、発信しようとすることなどをいまさら議論できない。でも普段から社会や科学の問題を話していると、スムースで楽しく議論することができるし、議論をする機会も普段から作っておく必要がある。
特に注意が必要なのは、「自分と違う意見の人を友人にする」ことで、これは日本人が不得意とするところのようだ。大陸の国は外国人が多く、戸籍もなく、いつも見慣れぬ人と生活をしているので、言葉も「私」というように主語から始めなければならないので、議論がしやすいが、日本はほぼ単一民族で、戸籍などがあって社会的な位置づけがされていて、主語がなくても雰囲気で理解できる社会である。だから、いつも「同じ育ち、同じ考えの人と群れる」という傾向があり、これが一生を通じるとかなり大きな損害になっている。
つまり、日本で議論しているうちに喧嘩になる半分ぐらいの理由は「感覚的」だからだ。たとえば日本語では「窓を開けた」と言えばそれで理解できるが、英語なら「私(I)が2つの窓(two windows)を開けた」となり、最低でも主語とか単数複数などが限定される。だから、相手の言うことをかなりはっきり理解することができるので、いきおい感情より論理が先になり、冷静な議論で終わる。夫婦の間もそうで、日本のほうがまあまあなあなあ、以心伝心で同じでなければ気が済まないので喧嘩になる。
でも「民主主義」というのはもともと「考えの違う人が集まり、相手の意見を間違っていると考えない」というのが基本だから、日本が民主主義でいくのなら、徐々に私たちも相手の意見をよく聞き、尊重する風土を作らなければならないだろう。(つづく)
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