何でも与えるのが親切ではなく、相手にとって本当に必要なものは何かを子供たちが学ばなくては、自分で考える大人になれません。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者の松尾英明さんが、学校でのアサガオへの水やりを例えに、変化の時代をたくましく生き抜く子供を育てる教育法について考察しています。
水をあげすぎない
学級で、アサガオを育てている。子どもは、毎日水やりをする。
これ自体はいい。
しかし、夜から朝方まで雨が降っていた日でもあげようとする。なんなら雨の日でもあげようとする。実際、梅雨入りしたから、水やりは不要な日がほとんどである。アサガオに対する愛情なのである。手をかけて育てたくて仕方無いのである。
しかしである。
「お腹いっぱいのところに、もっと食べてとご馳走を無理矢理食べさせられたらどうか」という例えで伝えてみた。しかも、笑顔で愛情に溢れた笑顔で流し込んでくるのである。かなり怖い&辛い。
アサガオの鉢の底はあいており、不要な水は流れるようになっているので、あげすぎても別に大丈夫ではある。ただ、水が不要であることには変わりがない。
相手のニーズを読むということである。水を欲している時にはあげればよい。アサガオは、自らに水を与えることができない。だから、やってやる。これは、親切である。水が不要な時は、放っておけばよい。やってあげることが、お節介になる。
教育でもいえる。子どもが自分でできないことは、助けてあげる必要がある。しかし、子どもが自力でやれることは、見守ってあげた方がよい。必要な時に支援がもらえいないのは困る。そういう時、子どもとて追い込まれたら、何とか自力で工夫をし出す。
手を出して欲しくない時に手を出す方が、教育的にはより悪い。自分でできることすらできなくなる。怠け者の作り方は、何でも与えて、何でもやってあげることである。「自分では何もできない人間」一丁上がりである。
「何不自由ない暮らし」は、幸福とは限らない。人には足りないものがあるから、それを得た時に喜びを感じるし、それを得るために工夫し出す。工夫して、歯を食いしばって努力する過程すら、後で振り返れば幸せである。世界で最高にうまい一杯は、最高級のワインでもブランデーでもなく、夏場に汗だくになって働いた後の一杯である。
話が逸れた。アサガオにだって、最高にうまい一杯は、土が乾いた後の水である。乾けば、根を張る。より強くなる。
何でも不足なく与えることは、教育ではない。変化の多いこの時代を、強く逞しく生きぬける子どもを育てたい。
image by: Shutterstock.com