第三者委員会とは言えない第三者委員会
私はこの事件を調べているという第三者委員会について調べてみた。
すると、実際は、「名古屋市いじめ対策検討会議」の中にできているものであり、第三者委員会名義で構成メンバーとされている各種専門家以外に、氏名や部署の記載がない教育委員会の職員が、メンバーとして構成されているということがわかった。
さすがに、これを第三者委員会とするのは、相当な無理がある。これでは、一部所の調査委員会とするのが妥当であろう。
そもそも遺族推薦の委員もいなければ、遺族が委員となるケースもあるが、そうした公平性を保つための配慮もない。これを第三者委員会とするのであれば、利害関係があろうが、独自の決済ができない委員会(上部組織の指導が反映されてしまう)であろうが、当事者以外なら、第三者委員会ということになってしまう。
第三者委員会が担保しなければならないと一般に考えられている公平性、中立性はどこに行ってしまったのだという疑念しか残らないだろう。
調査フロー、伝達フローに根本的な問題
学校などが行ういじめ調査において、上手くいかないケースには共通項がある。その1つが伝達に関するフローだ。被害者やその家族、または遺族は、いじめはなかったとしたい学校と対立することがあるが、こうした場合、教育委員会が仲裁に入るものだと思っている方が多い。
ところが、教育委員会は学校の運営をサポートすることが主な仕事であるから、仲裁に入るということはほとんどない。だから、教育委員会が問題に入ってきても、被害者やその家族、または遺族は、学校を通じて教育委員会に要請を伝えるという無意味な伝達フローに悩まされることになる。
また、調査フローとしても、一般に、教育委員会の指導室、指導主事などが独自に調査権限を持っているように思われがちだが、ほとんどの指導主事は、自分の考えを述べたり、質問への回答は許されていない。全ては一旦持ち帰り、上司の意向を確認してから、答えることになるのだ。
組織人としてはそれで良いかもしれないが、伝書鳩の役割ばかりと話さなければならない被害者らは、常にストレスフルであり、その以降を人伝にしか聞くことができない伝書鳩の上司は、現場の状況を判断することが難しくなる。
そもそもの仕組みが、問題解消へのスピード感を阻害し、解消プロセスを踏ませない悪害システムになっているとしか言いようがない。
この事件でも、学校の調査、教育委員会の調査となって、第三者委員会の設立となっているが、教育委員会はいじめに否定的な結論であり、それを出した教育委員会が庶務を担当するといいながら、その実、名ばかりの第三者委員会をコントロールできる立場にあるのだから困ったものである。
遺族をより苦しめる状況
遺族は学校の近くに住んでいる。だから、グラウンドも通学路も遺族の部屋から見えるのだ。
「きっとあの中に娘がいるはず」
「入ったばかりでまだユニホームもなかったから、練習を一生懸命やっているのが家から見えるんですよ」
遺族は悲しみをかみ殺すように私に話した。
「なんでこの事件に協力をしないと表明する親がいるんでしょうね」
事件に関わることではなく、知っていることを話すことすら拒否した割合は4割にのぼる。
それは事件に関与した子供を守るためなのだろうか、そうだとすれば、それは結果守ることにはならない。
いじめは連鎖する、仮に今、反省しているように見えても、喉元をすぎてしまえば、再び同じことを繰り返すものだ。
一方で、今、事実を明らかにして、キチッと自分のしたことを顧みさせ、指導教育をすることで、二度といじめをしないという未来を築けるかもしれない。
今、拒否することは、未来を否定することに等しい。
新たな試み
この事件では、一度、生徒たちの声が握りつぶされた。学校を信用して生徒たちが書いた事実が、何らかの理由で、消されたのだ。これでは、公平さも中立さも、はたまた正当性も担保できない組織だと評価せざるを得ない。
だから、私は、いじめ証言窓口をNPO法人ユース・ガーディアンホームページに開設することにした。近日中に、専用ページを開設し、証言の収集を開始する。もちろん、この事件については、徹底的な調査と追求をして行き、「伝説の探偵」で報告することにする。