だが、当時の台湾製品は「安かろう、悪かろう」であり、部品の規格もバラバラだった。劉は日本メーカーの品質管理を研究し、台湾のパーツメーカーを駆けまわって規格の統一化と品質の向上に努めた。
一時は資金が底をつき、会社を解散するところまで追い込まれたものの、劉の熱意と、優秀なビジネスパートナーの助けもあって、ようやくアメリカメーカーのOEM(相手先プランド名製造)生産を任されることが決定。創業から約10年にして、事業が軌道に乗るようになった。
だが、そのときに強力な商売敵として浮上してきたのが中国であった。改革開放政策のなかにあって、欧米企業は生産力が安価な中国に生産拠点を次々と移していった。ジャイアントのパートナーであったアメリカ企業もその例に漏れず、突然、ジャイアントへの発注を打ち切り、中国企業に切り替えた。
OEM生産の限界を知った劉は、1981年、独自ブランド「GIANT」を立ち上げ、世界各地での拠点づくりを進めるとともに、東レを説得して素材を調達、世界に先駆けてカーボンファイバーを使ったフレームを完成させるなど、営業・技術の向上に努めた。その結果、世界的メーカーに上りつめることができたのである。
台湾の自転車市場でトップに立った劉は、業界合同での技術研究チームをつくり、トヨタの生産方式を学んだ。これにより、台湾の自転車産業は飛躍的に効率化していった。そのあたりの話については、前掲書『銀輪の巨人』にくわしい。
劉が徹底的に技術にこだわる点は、日本の「匠の文化」に近いものがある。やはり日本語および日本文化を学びつづけているだけあって、影響を受けているのだろう。