情けは人のためならず。利他の人・渋沢栄一の孫が受けた恩返し

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「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一は、第一銀行や東京証券取引所等の設立など経済史における数々の偉業が知られていますが、一方で情にも厚い人物であったようです。無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、お孫さんであるエッセイストの鮫島純子さんのエピソードを通じ、渋沢栄一のヒューマンな一面を紹介しています。

渋沢栄一の利他の布施がもたらしたもの 鮫島純子(エッセイスト)

現在96歳のエッセイスト・鮫島純子さん。渋沢栄一を祖父に持つ鮫島さんは、かつての祖父の施しが巡り巡ってご自身の窮地を救ってくれたと述懐されています。


海軍横須賀鎮守府の主計長だった夫とお見合いし結婚したのは1942年、大東亜戦争初期の、まだ国中が日本の躍進に沸いている最中でした。しかし、開戦前、有力政治家と親交が深かった父が、戦争回避に向けて奔走する姿を見ていた私は、この戦勝ムードにどうしても馴染むことができませんでした。製鉄会社で働いていた父は、鉄の生産量から考えても日本に勝ち目がないことが十分分かっていたのです。

結婚8か月目、本来の職場・航空機製作所に戻ると、夫の転勤で名古屋の中心部に住むことになりました。夫が長期出張中の1944年12月知多半島震源の大地震があり、私は1歳の下の子を抱いて慌てて庭に飛び出しました。2階に駆け上がって昼寝中の2歳の上の子を救い出し、大揺れの中、命は守られましたが、年が明けた1月3日追い打ちのように名古屋市は初の空襲を受け我が家も焼夷弾の雨に見舞われたのです。

焼夷弾が降り注ぐ中、素掘りの壕から飛び出した子供を片手に、もう一方の手で濡らした筵を引きずって必死に火を消し廻りました。幸い近所の皆様が駆けつけて手助けしてくださったことで借家は焼けずに済みましたが、信じられないような力が出せたのは自分でも驚きでした。これが火事場の馬鹿力かといまになって思います。

そんな私たちを心配していただいたのでしょう。「こんな街中は危ないから郊外にあるうちの茶席に越していらっしゃい」と声を掛けてくださったのは、昔、祖父を徳川慶喜公の家来に取り持ってくださった平岡円四郎さんのお孫さんに当たる方です。

円四郎さんは誤解から水戸藩攘夷派に暗殺されますが、ご遺児を不憫に思った祖父は、明治初期に家を建て恩人の遺児を保護しました。その方の娘さんが名古屋近郊で料亭を営んでおられ、祖父への恩返しとして家を提供してくださったのです。

祖父の施しが年月を経て徳も積まぬ私が恩恵を受けご縁をありがたくいただいた次第でした。

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【著者】 致知出版社 【発行周期】 日刊

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