ふとした出来事で自分自身の衰えを感じたときに生じる疑問に「なぜ歳を取るんだろう」や「老いはなぜやってくるんだろう」などがあります。しかし、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』の著者で「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの生物学者・池田教授は、「なぜ老化をするのか」という問いかけがそもそも間違っているとキッパリ。そう断言する理由を老化のメカニズムから解説し、話は老いることのない植物の紹介にまで及んでいます。
老化に進化論的な意味はない
前回は存在するものにいちいち理由や意味などない、という話をした。今回は「なぜ老化をするのか」という問は、そもそも問が間違っているという話をする。
「どのように老化が起こるか」という問に関しては、解剖学的、生理学的、分子生物学的な見地からの山ほどの答えがある。それに対して「なぜ」という問に対しては、「老化は自身の遺伝子を残すのに有利だから」というネオダーウィニズム的な答えに、現代生物学は汚染され続けてきた。
最近『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』(集英社インタ─ナショナル)と題する本を読んだ。著者はジョシュ・ミッテルドルフとドリオン・セーガン。原題はCracking the aging code(老化遺伝子を解読する)。ミッテルドルフは老化の究極原因をネオダーウィニズム的な解釈に求めないで、「集団選択」すなわちコミュニティにとって有利だからという立場をとる現時点では異端の学者である。共著者のセーガンは天文学者のカール・セーガンと彼の最初の妻である生物学者のリン・マーギュリスとの間に生まれた長男で、マーギュリスと何冊もの共著がある。マーギュリスが反ネオダーウィニズムの急先鋒であったことを思えば、セーガンが本書の出版に協力したのも頷ける。
しかし、私は老化の究極原因をネオダーウィニズム的な「個体選択(遺伝子選択)」や反ネオダーウィニズム的な「集団選択」に求めるのはどうも胡散臭い気がする。大体、究極原因という考え自体がそもそもいかがわしい。地球上に生命が誕生したのは約38億年前のことだ。どのようなプロセスで誕生したかにはついてはいずれ答えられるようになるにしても(今のところ、このプロセスの詳細は分からないが)、生命が誕生した究極原因などはないわけで、別に生命が誕生しなくてもかまわなかったわけだ。
ごく乱暴に言えば、生物とは「自分の力で外部からエネルギーと物質を取り入れて代謝を行い、熱と老廃物を外部に捨てている伸縮可能な閉鎖空間システム」のことで、DNAはこのシステムを動かす装置の一つに過ぎない。構造主義生物学の用語ではこの空間を限定空間と呼び、限定空間が増大すること(成長)、分離すること(生殖)、崩壊すること(死)、システムのルールが変化すること(進化)が生物の特徴であることは周知の通りであろう。