新元号「令和」の元ネタが中国でも「盗用」には当たらない理由

 

漢籍を模範にしただけで、盗用にはあたらない

「令」は入っていないと、言われるかもしれません。確かにその通りですし、私は、漢籍を模範としていることを悪いことだとは全く考えません。どこかの学者がやる、論文の盗用とは全く次元の違う話です。当時の大伴旅人は、この「蘭亭集序に記載された気持ちと全く同じ気持ちを感じ、だからこそ、それを真似た宴を持って和歌を愛する人々といっ時を楽しもうとしたのです。序文まで真似て行った、宴であったことを先ずは知っていただきたいと考えてのことなのです。

参加しているメンバーをみると、太宰帥の下に置かれた弐(すけ)、監(じょう)、典(さかん)の高級官僚達、その下の実務責任者の判事、薬師、神司、令、陰陽師(うらのし)、算師、各律令国の責任者達、当時、筑前守であった山上憶良、豊後守の大伴氏(首麻呂か?)、筑後守の葛井大成、壱岐守の板氏、トップが来れずに代役として来たのか、大隅目や、対馬目、薩摩目が参加しています。

国司には、四等官として、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の官吏が置かれました。出席が多い目(さかん)の役職は記録や文書の草案作成でした。書記に当たる役職だと思いますが、この役職にはやはり文才のある人々が取り立てられていたようです。

また、場所が太宰府で行われたせいなのか、筑前国だけは守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)が全て参加しています。もしかすると、歌人である山上憶良の影響で、筑前国では彼ら役人達も歌人が多く登用されていたのかもしれません。集まって歌会がなんども開かれていたのかもしれないと想像してしまいます。実際、筑前歌壇と呼ばれる世界を作り上げていたのです。

これだけ、各地の責任者達が集まっているのですから、太宰帥の管轄地域の行政上の会合があり、その後引き続き催された宴席であったのかもしれません。私は、大伴旅人が太宰府に赴任して来た直後の就任の挨拶があり、そのために九州から代表が集まることになり、その後の就任の祝いとして開いたのがこの梅花の宴であったのではないかと思うのです。

「梅花の宴」は辺境の地で望郷の思いを歌う宴だった?

大切なのは、都で重役について還暦まで人生を送りながら、新たな赴任先は、高官であるとしても都から遠い九州の地であったということです。いわゆる、左遷であることは間違いないのです。大伴旅人の胸には、「私がそんなに邪魔なのか」という憤りもあったのかもしれません。
中西先生は、中国の楽府詩の題材の一つである「梅花落」を真似ようとして梅花の宴を催したのではないかと言われています。楽府は、詩歌を管理する役所です。そこが、歌会の題材も管理提供していたのです。「梅花落」とは辺境の望郷詩なのだそうです。「梅花落。春和の候、軍士物に感じて帰らんことを懐ふ。故に持って歌を為す。」この軍士こそが大伴旅人の心境なのだということのようです。都から遠く、九州の辺境の地で望郷の思いを歌う宴を開いたのです。

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