新元号「令和」の元ネタが中国でも「盗用」には当たらない理由

 

侵攻と圧政の中での九州赴任、大伴旅人の心境は

太宰帥の管轄地域は、九州と周辺の島々で筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、肥後国、日向国、大隅国、薩摩国、壱岐国、対馬国、そして、この当時は多禰国(種子島などの大隅諸島)でした。五畿七道の中では、西海道と呼ばれた地域になります。

彼のお父さんは、大伴安麻呂ですが、安麻呂もまた太宰帥でした。705年に赴任して、3年間この役職を勤め上げました。そして、大納言に出世したのです。この時、旅人も共に来ていたとは思えませんが、この役職につかされる布石は存在していたようです。

この少し前の702年に、大和政権は九州の南部に侵攻します。そして、薩摩国(当初は唱更国(はやひと国)と言いました。)を築いて兵を送り込み、熊襲と呼ばれて最後まで残っていた抵抗勢力を征圧したのです。それから、10年たった713年には大隅国を設立します。ここでは、同化政策を取り、豊前国から5000人もの人を移住させ、指導させることで新たな土地制度の下で租税を徴収しようとしたのです。しかし、もともとここに住んでいた隼人と呼ばれた人々にすれば、この大和政権のやり方にはどんどん不満が貯まるばかりでした。

720年には、大隅守の殺害事件が発生、そして、非常に大きな反乱が勃発したのです。豊前国の人間を移住させてまで、行おうとしたのは稲作であったのですが、これがシラス台地の上ではうまくいかなかったのです。

大隅国の国司が反乱軍により討たれたと知らせを受けた大和政権は、大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命して隼人の討伐に向かわせます。これが大伴旅人が最初に任じられた九州の地での役職になりました。大伴旅人のヤマト軍は1万人です。5月に軍営を張ったヤマト軍は、七箇所の城に立てこもった隼人達を次々と落とし、6月の中旬には2城を残すだけとなりました。

しかし、時代は大きく動きます。当時最大の権力者であった右大臣の藤原不比等が亡くなってしまうのです。これにより、大伴旅人は直ぐに京に戻るように命じられます。2城を残し、ヤマト軍を副将軍に託して8月には都に戻ってしまいます。その後、隼人が集結した2城は、難攻不落で攻めきれず、翌年の7月になり、ようやく1年半に渡った戦いにヤマト軍は勝利を収めたのです。

この7年後に大伴旅人は太宰帥に任命され再び九州の地に戻ることになるのです。決して、旅人が反乱民族の制圧に長けていたからということではなかったようです。彼は、太宰帥としての赴任時代に隼人征伐に向かうということはありませんでした。九州では、酒に浸り、歌を読んで優雅に暮らしていたようです。辺境の地での隠遁生活を楽しむかのような生き方を送っていたのです。

梅花の宴に、大隅守も、薩摩守も参加していなかったのは、未だその地が不穏な気配があり、そこを抜けて国司が宴に参加できるような状況ではなかったのかもしれません。同じ九州の地でありながら、北側では、梅の花見をしながら歌を詠み宴に興じ、南側では、未だまつろわぬ人々を抑え込むのに必死であったというのが、当時の大伴旅人に辺境の地と感じさせた九州の実情であったのだと思います。

大伴旅人にとっては、隼人の乱の鎮圧の時も、政変により任期途中で京に戻るということになりましたが、太宰帥でもまた政変により任期途中での帰京になります。長屋王の変が生じ、都は揺れ動きます。そして、730年の終わりには、大納言となり帰京することになってしまいます。

わずか、3年足らずの失意の中での赴任となりましたが、また本当の春がやってきたのです。しかし、この間には、一緒に九州の地にやって来た妻の郎女を失うことになりました。決して良い思い出の地ではなかったのだろうと思います。

大伴旅人はこの宴で、次のような歌を詠んでいます。「我が園に 梅の花散るひさかたの 天より雪の流れくるかも」梅の花の舞い散る様子を、空から雪が降ってくるようだと歌った歌です。雪には見えないように思いますが、ひらひらと花びらを散らす様子、「梅落」を歌っているのです。九州では滅多に雪は降りません。雪のように感じられたのは、彼の心が冷えていた表れであったのではないでしょうか。

当時、筑前守であった山上憶良は、「春されば まづ咲く宿の梅の花 独り見つつや春日暮らさむ」という歌を詠い応えています。傷心した大伴旅人の気持ちが痛いほどわかっていたからこそ、憶良は、「梅の花をみて春の日を過ごすことになるのかな」という大伴旅人の詠嘆を歌っているのです。

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